歴史は、結びつきの中に存在している。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

を読み終えました。

『人間が太陽の光に包まれ、風に包まれて生きているように、かつての日本の人々は、 自然に包まれ、共同体に包まれて存在している自己を感じていた。だから自分を見つめようとすると、そのこと自体の中に自然や共同体が入ってくる。自然や共同体に包まれて成立した「場」のことを風土と呼ぶなら、自己とはたえず風土とコミュニケイトする中に成立するものだった。』

この考えでいけば、昨日のエントリーに書いた、「共同体自己」と「きわめてゆく自己」とのつながりは、
当然同時に存在するものであることがわかります。
昨日は便宜上二つを分けて書きましたが、これはどちらにも向かう揺らぎのあるものだと考えます。
自然というものが、人間と対立するものではなく、いつかは一体となるというような考え方だったのかもしれません。

『人々は自分たちの村の中で、様々なものを村にあったものへとつくり変えながら、自分たちの地域をつくってきた。こういう生き方をしてきた人には、知性の継続、身体性の継続、生命性の継続が必要だった。ときに人々は知性を働かせて生きなければならない。しかし、知性だけで村の暮らしはつくれない。第二に身体性の継続と継承が必要になる。それは多くの場合は『技』という言葉と同一化していて、田畑をつくる技、用水路を維持する技、道を守る技、石組みや建築の技、山からいろいろのものを採取する技、さらに様々なものを加工する技。そういったものが身体に刻み込まれたかたちで受け継がれていくことが必要だった。身体それ自身の力をとおして、村人は一面では村の歴史を作ってきたのである。(一部改変)』

この文章は私にとって非常に痛い文章でした。
というのも、私はどんくさいからです。
もちろん、どんくさいなりに一生懸命やっていますが、できる人から見ると
「畑、向いてないんじゃない?」といわれるほどです。
先日も行きつけのガソリンスタンドのおばちゃんにいわれてしまいました。
なまじプライドがあるものですから、
「何を言うとんねん。俺かってやれるわ。」
心中つぶやくも、実体が未だ伴わず。
その中で、少しまし?なのが『知的労働』の部分ですが、
これも衆に秀でるものではありません。
そういう私がこの文章を読むと、『この継承、自分にやれるのか?』と
不安になってしまうほどでした。
実際に現場にいるものですから、自分の働きを振り返って反省することしきりです。

でもこれ、発想の転換だと思っています。
確かにどんくさいけど、私にはまだ『なんとかやってみよう』という気があります。
おもしろがれる気があるのならば、それでいいのではないかと思っています。
身体性の継承、という意味でも全くできない訳ではありません。
できるところを評価したいと思うのです。

現実、事実を構造的に理解し、それを身体的に憶えてゆく。
考えを伝えるには技術がいります。
骨だけ鍛えても、筋肉を鍛えなければ動けません。
それはいわば人生の道程です。
鴨川に移住してきたことで、否応なしに古い共同体に属し、肉体的にもコツコツやっていかねばならない状態を楽しんでいます。

「歴史は、結びつきの中に存在している」

私も、その結びつきの中に存在していると感じています。自然王国の活動も、
風土とコミュニケイトするなかで継続し、生み出していければ、と考えています。
内山さんの本で、自分の働き、考えを振り返るいい機会ができました。

今回のエントリーにはかけませんでしたが、
この本の副題は「歴史哲学序説」とあります。
発展的、制度的に理解してきた歴史を、
つながりの中、民衆の中からみえてくる歴史としてつかみたいとする
内山さんの考えに深い印象を受けました。

*種まき大作戦の田んぼの畦にまいた大豆が発芽しました!

以前のブログを読む