全的な生活

「頭と心と体は本来はつながっていて,これは相互にコミュニケーションしなければならないものなのに、
私はそれから切り離されているようだ。
感覚的に言うと,身体が分離している,という状態だ。
その三つがつながっているものが、食べ物を育てたり,加工したりといった昔ながらの生活なんだろうと思える。
日常の生活そのものがつながりなんだろう。
この生活が,私には尊いもののように思えた。」

帰農塾7月コースの参加者の感想に,このようなものがありました。
私たちの伝えたいことを,深いレベルで感じ取ってもらったような気がします。

私も,農的生活は、すべてがつながっていると感じます。
たとえば、畑を耕し,種をまき,収穫し,片付けるという一連のサイクルの中に,
堆肥を撒くときの堆肥は家畜の糞尿や,野菜の残さ,刈草からできていて、
種をまき,野菜を管理する場面での支柱は近くに生えている竹を使ったり,
片付けたものはまた堆肥へ、という行為が含まれています。
そのサイクルの中に自分の行為が介在していることから,
自分がつながりの中に存在していることを認識することが可能なのです。
つまり、生命のつながりの中に身を置く行為がそのまま、自分の存在を感じる大きな要素になると言えます。
それは大きな自己肯定感を惹起するように思います。

逆に都市生活においては,この全的なサイクルの経験をすることが困難で,
経験しようと思っても、サイクルの一部分しか経験できないことが多いと思われます。
例えば今回の帰農塾の参加者の中に,マクロビオティックな生活をしている人がいましたが,
その方も高いお金を出して自然食品店で有機野菜を買うことにどこか違和感を感じていました。
マクロビオティックな生活をするために全国で生産されたものを使うなんて,
身土不二の考え方からも変だ,ということですよね。
マクロビオティックじゃなくても、自分で育てた野菜を食べることの方がまだ自然だ,
自分が生命のつながりの中に生きているということを実感できる,と言っていました。

理屈だらけの文章になりました。
普段の農園作業を通して自分の感じることを、言葉にすればこうなります。

でも、「言葉より行動を」。
一緒に農園作業をやりましょう。
一緒じゃなくても,そこかしこで農的生活をやりましょう。

そこかしこにつながりが生まれて,一人ひとりが、
「自分はここにいていいんだ。死ななくていいんだ。殺さなくていいんだ。」
と心底感じられることを願います。

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