今回の王国イベントでは,A田夫妻が育ててきた鶏をしめてみんなで食べました。
鶏をしめるのは,私とM口さん。
私は,9月の帰農塾でA田さんの補助をしなければならないので,なんとしても
解体できるようになりたかったのです。
4月8日生まれの鶏たちが,オス5羽,メス1羽がやってきました。
そのうち、オスを2羽しめました。
逆さに吊るした鶏の背中から,包丁をさして頸動脈を切断します。
3月に初めてやって以来2回目ですが,今回の方がぐっときました。
吊るすまでは,作業の一貫として行えますが,包丁で頸動脈を切断するのは,
息をためないと行えません。
手元が狂うという表現がありますが,自分の動揺がそのまま手に伝わってしまいます。
普段から,「農的生活はいのちの流れの中にあり、すべてがつながっています。
鶏の解体を通して、いのちをいただくという行為を理解して頂きたいです。」
と言っている私ですが,実際に自分の手で行うのは,勇気がいりました。
血を流してしまえば,後はお湯につけて毛をむしり,火であぶって産毛を焼き,
解体作業に入ります。
解体作業は、言ってみれば技術的なことなので,身体で憶えていくだけのことです。
しかし、しめる主観の感覚は,今も手に残っています。
これは憶えるというより,感じてしまうものです。
この感覚が飛躍してしまえば,肉食をいっさい断つ決断をする人がいてもおかしくない気がします。
「解体してくれる人たちがいるから私たちはお肉を食べられるんだよ」という言葉は,
実体でありながら,解体をどれだけの人が実感できるかというと,それは皆無に近いでしょう。
”いのちをいただく”というのは言葉じゃなく、明らかな現実です。
王国でやっていることは屠殺業に従事している方からはお遊びにすぎないと
言われてもおかしくありませんが,経験したことのない者にとっては大きな経験です。
肉を食べない人の存在も増えてきてはいるものの,肉食が標準に近い食習慣の中,
A田さんがこのような機会を提供してくれることは,本当に貴重なことです。
A田さんに深く感謝しています。
ただ、ある程度俯瞰して言えば,農的生活に庭先養鶏は卵というタンパク質供給源,
生ゴミの処理,鶏糞の産出という役割からも欠かせないものといえます。
卵を産まなくなった鶏の行き先を考えれば,やはり自分でつぶして食べることが
いちばんの感謝かと思います。これが昔ながらの生活の一つなのかもしれません。
私は,移住4年目にして大切なステージに入ってきているような気がします。
今回のイベントにはキュウリ大好きな小学2年生の女の子がきてくれました!
みんなにキュウリ女と呼ばれるほどキュウリが好きなようで・・・
後ろに見えるのは生ビールの空き缶です。