歴史の流れの中で

昼から外回りなので、午前中はファミレスで仕事。
外は雨が降っていて、寒い。
こんな日に街を歩くのは辛いが、それも仕事であると自戒。

さて、この本。

世界史

世界史

1971年発売の初版を購入したので、現在のものとはだいぶ違っているのだろうが、
大筋の理解には大差はないだろう。

自分が今ここに生かされ、生きていることを不思議に思うことがある。
毎日食べて、働いて、寝て、たまに子供と遊んでという生活。
なぜ働くのか?ということにもかかわるのは、
なぜ生きるのか?という問題。
「人は、幸福になるために生きているのです」
という言葉は、生きる喜びにつながるだろうが、
生きる意味を見いだせるものではないだろう。

大概のところで考えることをやめ、目前のやるべきことを一つ一つ片付けていこうと
仕事モードになってしまうのだ。
深く考えずにすむのなら、そのほうがいいのかもしれない。

現在の仕事は、待機時間というものがあって、勤務時間が膨大に長い。
もちろん、就業時間が決まっているわけではない。
給与が高いとは言っても、べらぼうに高いわけでもない。

時間を無駄にしない暮らし方をしようと思ってipodに講演録を入れてみるも、
それもいつまでも聞けるものでもない。

そうこう考えていると、近視眼的にしか物事を見られなくなっている自分に気づくのだ。
司馬遼太郎が昔言っていた「鳥瞰的に物事を見る」ことができるようになるために、私は歴史書を読むのだ。
概説書も読むが、古典がもっと好きだ。
すべてわかるわけでもないけど、過去において真剣に物事を考えた人々の文章を読むことが
今日を生きる自分に響くことがあるのだ。

すべてを納得して自分の人生を生きているわけではない。
しかし、内省を重ねながら自分を成長させていくしかない。
生きる意味を考えながら、今日一日を全うすることからしか明日は生まれない。

2杯めのコーヒーを飲みに行こう。

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