先日の内山さんの勉強会で、
「日本人の自己形成としては、「共同体自己」と、「きわめてゆく自己」という
二つの自己形成の方法をとる」という話を聞きました。
具体的には、上の話を農村に当てはめた場合、村の水管理を共同作業で行うことは
「共同体自己」の発現であり、その場合の鍬の使い方なんかは「きわめてゆく自己」
の発現であるといえます。
このように、共同作業における自分と、個人としての自分との微妙な二つを
行き来しながら自己形成するそうです。
この話を聞いて、自分にも当てはまるなぁと思いました。
村の仕事は当為的なものとして存在し、そこに自分の意志を組み込むことは
できません。むしろ、当為的であるべきだと考えています。
ただし、その中での作業の仕方、もしくは自分の菜園での栽培法などは
どんどん工夫して、自分で熟練させてゆくことができます。
さらに、きわめてゆく自己としての自己形成は、
欧米人の自己形成は、徹底して他人との比較によってなされる
ようですが、日本人の場合はとことん自分の内面、内奥に入ってゆくようです。
全てに、『道』を見いだします。
このように分類するとわかったような気になります。
特に、自分の今の生活がこの話によく当てはまっているので。
現在の社会問題の多くは、『共同体自己』つまり、共同体の中での
自分を思うことができないことに起因するようです。
「きわめてゆく自己は」、自分の内奥に進む訳ですから、
きわめればきわめるほど狭くなってゆき、それは誰にも評価されるわけでも
ありません。きわめたその先のむなしさは、破綻を招くかもしれません。
昔なら、「共同体自己」と「きわめてゆく自己」は同時に存在し、
きわめてゆくものすら、『村に住んでいる』ことでほぼ自明的でした。
現在は、『何についてきわめようか?』とまで考えなければならない時代です。
私もそのような現代に生きているので、
何をきわめてゆこうか、やはり自明的ではありませんが、
今の仕事に懸命に取り組み、むらの暮らしを大切にしていくという
シンプルなところに集中しようと思うのです。