大阪の友人から借りた。
著者が、内閣府参与として活動したことを土台に、
民主主義のあり方について論じている。
印象に残ったのは、現代社会に、
「決めてくれ。ただし自分の思い通りに」という指向があるという指摘。
民主主義とは、反対意見の調整と言ってもいい。
行政が行うことは、税金を使って行うことなので、
賛成意見を持つ人々と、反対意見を持つ人々との間での
調整を行わなければならない。
だから、行政がやることは、民間が素早く実行できるのに対して、
総花的であったり、妥協的であったりして、中途半端になってしまう。
「だから行政はだめなんだ。さっさとやればいいのに」ということはたやすい。
だけど、私にもほんの少しだけ経験があるのだけど、
反対意見の調整ほど大変なことも少ない。
本質的なことではなく、「オレは聞いていない」というだけでつぶれることも多いのだ。
世の中が全て善意で、前向きで、協力的であったら言うことはないのだけど、
この世の中にはたくさんの考えがあって、たくさんの人の生活がある。
その調整が面倒くさくなると、ヒーローを求めたくなってしまう。
そのヒーローは、はじめは自分の利害を代表しているように思えるが、
後にはそれが回り回って自分を斬りつけてくるかもしれない。
そうなってからでは、回復するのに時間がかかりすぎる。
著者は言う。
「参加型民主主義を実現するためには、そのための時間と空間が必要だ」と。
たしかに、周りの誰をみていても、忙しすぎる。
朝から晩まで、場合によっては日付が変わる頃まで仕事をして、
どうして自分の考えを作っていけるだろうか。
消費税、TPP、生活保護政策等の社会福祉政策、在日外国人問題、
中東の問題、エネルギーの問題などなど。
社会問題は、ありすぎるほどあるし、
私の住む地域においても、過疎や高齢化、雇用の減少などは重大な問題だ。
しかし、それが話題になり、その解決のために自発的に集まることは少なく、
結局日々の生活を淡々と行うだけになっている。
でも、身の回りの問題の解決を行政や議会、首長に預けてしまったら、
誰がその責任を取るのか。
なんとか、それを考えたり、行ったりする時間と空間を確保しなければならない。
著者の切実な思いが描かれている。
私の少ない経験でも、いろいろと集会やイベントを企画しても、
なかなか人が集まらないし、同じ顔ばかりになってしまうジレンマを感じている。
でも、それを行うことこそが、著者の言う「世の中の矛盾を引き受ける行為」ということに
なるのだと思う。
私は今は、政治とは無縁の場所にいる。
でも実は、無縁ではないのだ。
目に見えた関係がないだけで、私も政治と密接につながっている。
私の身近な範囲で、様々な矛盾と向き合っていきたい。
”「誰の責任だ」と目を血走らせるより、
課題を自分のものとして引き受け、
自分にできることを考えるようになる。
それで何か新しい工夫が見つかれば、
それが自分の財産になる。”
ほんと、身近なところから始めていこう。
「なにかデカイことをやろう」なんて、
私にはほど遠いことなのだから。