先週からの炭焼き作業の続き。
だいたい、週のうち火曜日と水曜日が定例作業になりつつある。
今日は木割りといって、90センチに玉切りした材を炭にしやすいよう割っていく作業。
長老たちが残してくれた大きな自作薪割り機で割っていく。
薪割り機には2人でとりかかるので、それ以外のメンバーは棚木といって、窯の中に炭材をならべたときにできる空間を埋めるために使う短い材を作ったり、割った木を並べる作業を行う。
これが、棚木を積んだ写真。
太いのやら細いのやらがいろいろ混ざることで、隙間なく空間を埋められるというわけだ。
割った木を並べた。写真の左にあるのは、割らなくても炭にできる太さのもの。
これを窯の奥の方に詰めて、割ったものは窯の手前に並べていく。
炭にするときに、窯の手前の方は温度の関係で燃えてしまうことが多いので、燃えてもあまり痛手ではない割り木を置くという仕組みになっている。
先日も書いたが、2月13日から、この冬最後の炭焼きを行う予定。ぜひご参加を!
ところで、私たちが焼く炭は、欲しい人に売っているのと、自分たちの自給用として利用されている。
一回の炭を焼くのに、5人が10日間以上の時間をかけている。単純に計算しても、作業に見合う対価としての金銭を得られるわけではない。
でも、「結局さ、金になんなきゃ意味ないんだよ」
という考えには断固として反対したい。
もちろん、霞を食べて生きていけないのは私でも知っている。
しかし、その行為を行った直接の結果として、金銭という対価を得ることが全てではないと思っているのだ。
一見無駄に思える行為の積み重ねが、総体として生きる道を作っていくのだと確信している。
炭焼きをすることで、私は伐倒技術や機械の使い方を学んでいる。市役所にその目的と内容をプレゼンすることで市からの補助も得られた。その補助を利用して講習会を開いて、来月には地元の小学校に木炭を使った授業をしにいく。周辺事業が生まれてきている。
とすれば、暮らしそのものを仕事として、その全てから対価を得られればなんとか生きていけるのではないか?という仮説が成り立つ。
生きていくため、そしてちょっとした余裕のためのお金は必要だし、欲しい。
でも、それだけを目的にはしたくない。
この仮説を絵空事にはしたくない。
それを証明していく作業が、私にとっては、生きることなのだ。
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