若者はなぜ3年で辞めるのか?

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

ミツヲ書庫より借りたもの。
巷で人気のこの本。
著者は、「若者はなぜ3年で辞めるのか?」
という問いを、個人の責めのみに帰するのではなく、
社会に根強く存在する年功序列に原因があるとする。

やめられる会社側の論理としては、
「最近の若者は、わがままだし、我慢強くない」
があげられる。

「わがまま」という意見に対しては、就職戦線において自分探しをして、
しっかりと自己アピールをし、自分が就職する会社でどのように働きたいか、
どのように力を発揮できるかを
適切に述べられなければ、内定を取れなかったことから、
必然的に自己主張をするようになったといえる。

もう一つの「我慢強くない」という意見に対しては、
昔は、だまって我慢しておれば、30年40年すれば
トップに離れなくても、給料にはそんなに差が出ない、という
年功序列制度が機能していたからである。
しかし現在は、経済成長が右肩上がりには
ならず、どれだけ我慢しても年次昇給制は撤回された今、
自分の給料が上がらないことが見えてしまう。
では、なるべく早いうちにレールから降りてしまえばよいではないか、
と決心し会社を辞める、というのだ。

なるほどな、と思う。
このように分析すればすっきりする。
この本にはほかにも、派遣社員の使い捨て振りとか、
労使一体、それに政府まで一緒になった
中高年を保護し、若者を切り捨てる政策の実態が分析されており、
頭を整理するには適切な本だ。

私自身、高校にも行かず、大検を受けて
大学に入っても就職もせず勉強ばかりしていて
27歳になってしまったら、レール社会的には
完全に落伍者である。
しかし、私には思いがある。
夢、というとあまりにも青臭いけど、
農的なくらしを基礎として人々が
楽しく暮らす、すごしていける場を作りたいということだ。
金にならないかもしれないし、
ほかにも多くの団体が取り組んでいることかもしれないけど、
私は今やっと自分の場所をつかみかけているのだと思う。

それに、この場で暮らすこと自体が、
可能性に満ち溢れていると感じる。
ますます私は成長してゆく。
きっとなにか、楽しいことができるだろう!

久々に書いて、
長文になってしまいました・・・

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ピーマンししとう片付け

11月中旬まで活躍してくれた
ピーマン、ししとうたちもついに
片付けの日を迎えた。

支柱に縛っていた紐をほどき、
支柱を抜いて、木も引っこ抜く。
木はまとめて畑の隅に野積み。
マルチも、土に残らないよう丁寧にはがす。

片付け終わった畑を見ると、
5月からがんばってくれた野菜たちに、
「おつかれさま」という言葉が自然に出てきた。

ありがとう。

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もみがら運び

懸案になっていたもみがら運びを今日行った。
もみがらは、排水をよくするために畑に敷く。
お世話になっている農家の方に紹介してもらったところに
ミツヲさんと2台で向かった。

一台には20袋積める。
2往復したので、80袋。
こちらを、画像のようにたまねぎ畑の
溝に敷いた。

かなりリッチに(笑)敷いてみた。
草抑えにもなるし、日に当たって分解すれば、
土にもすきこみやすいというもの。

野菜栽培もますますがんばろうと思うのだ。

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作付け計画

後一月で今年も終わる。
農作業は、追い込みにかかっていて、
年内にやっておきたい仕事を
進めているところだ。
今のうちに、来年の作付け計画を立てている。
なんせ、来年は忙しくなりそう。
石の上にも三年、とよく言うし、
自分も人によく言うのだが、
来年がいよいよその三年目、
はりきってゆこう。

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大豆収穫

6月に種を蒔いた大豆を、
イベントで収穫した。
今年は、秋になっても暖かい日が続いているので、
大豆がなかなか枯れない。
それでも、日程は容赦なく迫ってくるので、
結局のところ、青い木は残して収穫することにした。

古い脱穀機で脱穀した後、みんなで選別。
もっと効率のいい方法はないの?
といわれつつ、
少しずつ工夫して今はお盆の上に
大豆を載せてふぅふぅ吹きながら
ごみを飛ばすのだ。

寒風の中でも、みんなと話をしながら
作業を進めるのが楽しい。
来月は、残りの大豆を収穫して選別する予定。
みなさん、よろしくおねがいします。

さて、イベント後は急いで家に帰って、
村の神社の祭典に出席。
二拝ニ拍手一拝、という神道の作法に従って
礼をする。
このようにして、村の神社は維持されてきたのだ。
声を限りに叫ばなくとも、
何年も前からこの時期に祭典をやっている。

失われてしまった何か、
一見保守的に見える、
迷信にも思えてしまえるものが、
ここではちゃんと息づいている。
私も、ここで生きているのだな。

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冬の訪れ

最近、とても寒くなってきた。
やっとこさ冬が近づいてきたようだ。
大豆はいい感じで枯れている。
脱穀できるか心配だが、
今日は一日晴れたし、
明日は何とかなるだろう。

TVで、大根がとれすぎて
廃棄している映像を見た。
いつもいつも報道されることだけど、
そのたびに心苦しさを覚える。

慣行農法とは、現在主流の
化学肥料と、農薬を使う農業をいう。
有機農法や、自然農法とは少し違った
受け取られ方をしている。

でも、作り手の心情としては
同じだと思う。
必死に育てた大根が、売れないため
廃棄せねばならないのは、その後補助金で
いくらか物的損害が回復されたとしても
決して精神的損害は回復されないだろう。

市場で生きる、というのはこういうことだ。
この単純な事実をどのように受け止めるのか。
生活のレベルを切り詰めるのか、
とんでもない付加価値をつける方向で行くのか。

私には、単作農家で生きていく自信はない。
有機農家で生きていくことも厳しいだろう。
現段階は、農ある暮らしを基礎にして暮らしていくことだけだろう。

この先どうなるか分からないけど、
今は、ゲーテ
静かに仕事を続けていてください。結局そこから、
世界の展望も、経験も、最も確実にまた純粋に
生まれてくるのです
。」
という言葉を胸に抱こう。

ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)

ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)

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後世への最大遺物

久しぶりに、

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

を手に取った。

読み出すと、出だしから熱くなってくる。
「私に50年の命をくれたこの美しい地球、
この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを
育ててくれた山、河、これらに私が
何も遺さずに死んでしまいたくはない
。」
自分にも、わずかながらこんな気持ちが湧き上がってくる。

次に、ハーシェルという天文学者の言葉が引用される。
わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、
われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも
往こうではないか
。」
う〜ん、最近自分の安定ばかりを考えている・・・

そこで、内村は「何を置いてわれわれが
この愛する地球を去ろうか」と問う。

「金か。事業か。思想か。」
これらは確かに必要である。
しかし、これらのものを残せる人は限られている。
誰にでも残しうる遺物、それこそが最大遺物ではないのか。

それは、
勇ましい高尚な生涯
である。

この世の中は悲嘆の世の中でなくして、
歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、
その生涯を世の中への贈物としてこの世を去る
」ということである。

さらに、アメリカの女学校の校長は言った。

他の人の行くことを嫌うところに行け。
他の人の嫌がることをなせ
。」

誰にでもできることではないが、誰にでも
なしうるチャンスのある言葉である。

私にできることは何か。
この地でのほほんと暮らすのみなのか。
それとも、本気でみんなに伝え、
実践していくのか。

明治27年(1894年)の内村の言葉が
今聴いたように私の胸に迫ってきた。

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帰農塾終了

昨日、帰農塾が終了した。
参加者18人。今までで一番多い人数。
何度も参加してくれる人もいるけど、
ほとんどの人は一回だけの参加なので、
いつも気合が入るのだ。

ただ、一人一人のニーズにこたえるのは
難しいようだ。
私自身の実力不足もあるし。

王国としても、帰農塾でできた縁を
基にしてこれから活動していくんだろう。

まとまりのない雑感になってしまった。
また明日。

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