何か変化を求めて

ちょっと今までやってなかったことをしてみる。
図書館で、社会科学系ばかり借りていたが、
小説を借りてみた。

まずは、「テンペスト」、「トロイメライ」。(池上永一著)
琉球王国末期を舞台に、優秀な女性が男装して、
沖縄版科挙に合格し、政治をどんどん動かしていくが・・・
という話がテンペスト。
トロイメライは、同じ時代を庶民の目から描いた作品。
池上さんの本は初めて読んだのだけど、
当時の沖縄の雰囲気がそこはかとなく伝わってきた気がする。

それから、「民王」(池井戸潤著)。
内閣総理大臣の父親と、大学生のどら息子が入れ替わってしまい、
ドタバタを繰り広げながら最後には互いの生き方を尊敬しあうという話。
仕事に対する愛が感じられた。

「1Q84」(村上春樹著)。
言わずと知れた大ベストセラー。
当時も読んだけど、図書館を歩いていると突然再読したくなり、
毎晩遅くまで読み、読破。
青豆のいた「証人会」、ふかえりのいた「さきがけ」が妙に自分の過去とシンクロしてしまうのだが、
結局は、「揺るぎなき愛が互いをすくう」というお話。と、言い切ってしまうには単純すぎるが。
村上春樹の作品はいつも独特で、読んでいて結末に納得できないと思いながらも、
描かれた世界に没頭できるところが好き。
内容なんてわからなくていいんだ!といいたいが、もう少し読解力をつけたい。

ドラマ「半沢直樹」。
あまちゃん」がすごく面白いと聞いているけど、
NHKの朝ドラは「ちりとてちん」を最後に見なくなってしまった。
今からでも間に合うんか知らん。
それで、「半沢直樹」なんだけど、あまりの盛り上がりっぷりに
ついつい先週の5回目から見てしまった。
最初は全く見る気がなかった。
ドラマは最近ずっと見ていないし。
でも、ネットで話題だから、そう、私もネットで話題だから気になってしまうということがやはりあるのだ、と今更ながら気づくわけで。
で、内容だが。
なるほど〜、これは面白い。
というか、みんなが言えないことを言ってくれてる感が満載だな。
いろいろすばらしい分析がなされているので、屋上屋を架すのも難なので、
とりあえず最後まで見たいな、という作品。

しかし!
ここまで書いて気づくのは、
「変化を求めてといいながら、自分では行動してないじゃないか!」ということ。
まぁ、このブログを再開したのも思うことがあって再開しているわけだが、
まだ形にはならない。

最近自分の年齢がもう若くないことに改めて気づき、
この年になってまだ何もなしていないことに、がんばらねばと奮起する日々である。

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鴨川中学校吹奏楽部の演奏を聴いてきた。

午後から、鴨川市民会館で行われた
「音と絵本の音楽会」というイベントに家族で行ってきた。

青年会議所が主宰するイベントで、「サンドパフォーマンスアート」と
ブラスバンドが共演して一つの作品を作ろうとする試み。
サンドパフォーマンスアート自体は、初めて見て、その繊細さに驚いたし、
何より、「消える芸術」ということが気に入った。
サンドアートは、アーティストたちが描いた絵がスクリーンに映写される仕組みなんだけど、
一つ完成したな、いい絵だなと思うと、さっと手で砂をよけることで絵が消えてしまう。
それで、また新しい絵がどんどん描かれていくというわけ。
ストーリー性を持たせやすいし、パフォーマンスアートだから、訂正がしづらい。
それがもたらす緊張感と、鮮やかな砂使いによって生まれる絵に感動した。

もう一つは、鴨川中学校の吹奏楽部の演奏を楽しみにしていた。
塾で教えている子たちが演奏するというのを聞いて、
ぜひ行ってみたくなったのだ。
私も、中学の頃はブラスバンドでクラリネットを吹いていたので、
なんだか懐かしい気分になったのもある。

他に高校生、大学生の吹奏楽部の演奏もあるので、
中学生だったら一体どんな演奏をするのかな?と思っていた。
聴いてみると、びっくり!
リズム感もあるし、音の粒もそろっている。
当然ながら、私の中学時代よりずっとうまい。
集団のまとまり具合も、いい意味で中学生らしく、のびのびと演奏していて、
聴いていて気分が良かった。
塾の教え子も、クラリネットでソロをとっていて、かっこよかった。
また、顧問の先生もとても面白そうな先生で、
生徒たちをうまく楽しませているな、と感じさせた。

自分の中学生時代を思い出して、懐かしくなってしまった。
あのとき考えていた自分の将来と、今は全く違う暮らしをしているけど、
あのときはあのときで一生懸命やっていたな、と振り返ることができた。

まだまだ面白いことやれそうだな、と思わせてくれたいいイベントだった。

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「三国志」雑感

来月にいよいよ、宮城谷昌光氏の三国志が完結するようで、
それを勝手に記念してまた一巻から読み返し始めた。

本作では、劉備玄徳は一巻目から登場せずに、一巻の半ばから曹操のおじいさんにあたる曹騰が出てくる。いわば、いわゆる三国志の前段にあたる物語から始まるのだ。
細かい内容は省くけど、それにしても人間の業というものは全く深いし、
この頃の人間も今の人間とあまり変わらないのではないか、と思うことしきりだ。
基本的には王朝の物語なので、一般庶民が描かれているわけではないけれど、
皇帝の外戚が行う恣意的な政治、それにぶら下がる宦官、官僚たちの姿。
どうしようもない、と思って現状にあきらめてしまう人々。
でも、そんな中でも、自分の命をかけて諫言する何人もの人の姿が描かれる。
しかも悲惨なことに、諫言した人々はほとんど殺されたり、自死を選ぶよう迫られたりする末路を辿る。
それでもあきらめない人々が、歴史を作っていったのだな。
今の自分の生活からは想像もできないような生活だが、
単なる勧善懲悪でない宮城谷三国志からは学ぶことが多い。
現状にとどまる人々のことを非難できないし、私もそっちの立場になってしまうかもしれないけれど、
信念を貫き通した人々の心に思いを致していたい。

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「超訳 論語」雑感

論語読みの論語知らずとそしられる事を承知の上で。
論語と言えば、論語 (岩波文庫)や、論語〈上〉―中国古典選 (朝日選書)
論語〈下〉―中国古典選 (朝日選書)がスタンダードとされている。

でも、最近私が何度も読んでいるのは、

これである。

著者の安富歩氏の考えが独特で、その考えを自分でも意識的に取り入れる事で、
自分が自由になった気がするのだ。
例えば、有名な一節。
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず」(為政2−4)は、
金谷治訳によれば
「私は十五歳で学問に志し、三十にして独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず・・・」
となる。

ところが、本書では、
「私は十五歳で学ぶことに志した。それは、外にある知識を自分のものとするために、いったん、自分の感覚を明け渡す賭けでもあった。
三十歳になってようやく、学んだことを自分のものにして、自分自身の感覚を回復し、自分で立つことができるようになった。
四十歳になって、それまでの自分が、進むべき道がわからずに惑っていたにすぎないことを思い知った。そしてようやく、進むべき道が自分の前に広がっていることに気づいた。」
となっている。

これが本書の超訳たるゆえんだ。
著者がどんな思いで論語を読んだのか、それが痛いほど突き刺さってくる。
古典とは、本来このように、血の出るほどの思考を経て読まれるべきものなのかもしれない。

数えで39歳になる今年、この先どうしていこうか、どうしていくべきなのか、未だ惑っている。
目の前にあることを放っておいて、周りの人がどう思うかがどうしても気になってしまう。
今日一日、いろいろと考えていたのだけど、考えているだけでは答えがでないのが常だし、
きっと私自身の前にも「進むべき道」が広がっているのかもしれないことに思いを致し、
明日行動を積み重ねようと思う。

無心になるほどの取り組みを、したい。

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正直は最良の戦略!(親愛なる君へ)

社会心理学者の山岸俊男さんの言葉だったかと思う。

細部は間違えているかもしれないんだけど、
みんなが自分の利益ばかり考えて追求し続けると、
全体として社会がうまく動かなくなってしまう。
実は、みんなが他人がよくなるように考えると、
社会はうまく動いていくのだ。
それは道徳的にではなく、社会心理学の実験によって裏付けられる。

つまり、物事に対して正直に臨むことこそが、
人間のとるべき最良の選択で、相手を信頼して行動することが
結果的に自分をすくうことになるという考え。

このような話を本で読んでから、
心の片隅にずっとこの言葉をおいてきた。

生きていれば、根も葉もないことを言う人もいるし、
あからさまな敵意を向けてくる人もいるし、
ねたみが原因なのかわからないが、
やろうとするべきことを側面的に邪魔しようとする人もいる。

でも、その人たちに立ち向かおうとは思わない。
まずは、受け流す。
受け流せない場合は、よける。
よけきれない場合は、そのとき考える。
対応できるときは、できる範囲で対応する。
割り切った考えのように思えるかもしれないけど、
理想的には、事において誠実に、真摯に対応したいというのが私の考え。
それがどこまで通用するかわからないけど、
自分に嘘をつかなければ後悔はしないのではないか。
我、事において後悔せず。

これを心の底から言えるようになりたい。

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寛容さのない社会の中で

愛知県は岡崎市から車で学生たちが自然王国を訪れた。
教師になりたい子たちが多いグループだった。
岡崎市で、毎週「無料塾」というのをひらいて、
小中学生に勉強を教えているとのこと。

子供の頃から小学校の先生になりたかったんです、
という大学2年の男子学生の話を聞いて、
こんな熱い思いをもった人に教えてもらえればな、と思った。

今、私の上の娘が小学一年生だが、
教師という仕事もなかなか大変なものだと思う。
小学生など、まだまだ言葉の深いところまでは簡単には伝えられないし、
どうしても画一的な教化が施されるのもやむを得ないだろう。
それに、親たちを含めた社会も、教師たちに対して完全を求める。
いや、これは教師たちだけに対してではなく、今の社会は何か、
対象に対して完璧を求めているような気がしてならないのだ。
寛容さを失った社会の中で、真摯な思いを持った人々が痛めつけられていくのを
見るのは忍びない。
でも、誰かがやらなければならない仕事だし、その仕事に従事する人々に対して
尊敬するとともに、何かそれに主体的に関わることが必要なのではないかと思う。
予定調和的な学校行事を進めるだけではなく、
主体的で、自治的なものをなにかやれないか、と妄想するのだ。

今日来た学生たちはちょうど20歳前後の子が多かった。
世間一般には立派な大人だけど、
大豆の草取りをしながら、出会うカマキリやバッタ、クモ、そしてカエルに対して
いちいち大騒ぎ。
なんだかかわいくなってしまった。
自然に出会ったときの新鮮な驚きを、いつか子供たちに伝えていける教師になってほしいな。

もちろん、予定されていた大豆の草取り作業も、彼らは完全に終わらせましたよ!
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「風立ちぬ」雑感

先週の日曜日、市原にあるシネコンで鑑賞。
高速道路を使って、約1時間半はかかる距離。
遠い・・・
来年くらいに、木更津市にシネコンができるらしいという噂に期待している。
鴨川に引っ越してきて今年で9年になるのだが、
映画を見たのは本当に数えるくらい。
映画はやっぱり映画館で見るのが好きだ。

映画を見て思ったことは、
「美しいと思うものを思い切り作れる世の中であったらいいな」
ということだ。

時代の大きな流れの中で、当時世界最先端であった零戦の開発。
当初は兵器として非常に優れていたのだが、映画の中では、
兵器としての側面より、「美しい」飛行機を作ることにと
重点が置かれていた。

ヒロインの菜穂子とのくらしもとても美しく描かれていて、
うらやましさすら感じてしまった。
どこまでも、「美しさ」とか、「人間の純粋さ」などが
描かれていたように感じた。
いつの時代でも、人は美しさを求めるものなんだ、と言われているような気がした。

思い切り盛り上がるシーンは少なく、全般的に抑制された映画であったが、
それだけに思い返して考える素材となるいい映画だった。

それにしても、映画の中で、避暑地のホテルのレストランで、
客のドイツ人がピアノを弾きだし、そのピアノに合わせて日本人たちが
ドイツの歌を歌うシーンがあった。
当時のいわゆる教養階級というか、こういうことがこういう場所では行われていたのかな、と感じて、
改めて自分の無教養さに恥じ入るのであった。

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草刈をしながら。

稲刈り前の草刈をはじめた。
少しは気温が落ち着き始めたような気がするが、
やり始めたらやはりまだまだ暑く、
一時間ほど続けるだけで息が切れる。

家の前にあるライスセンターには、
もみを積んだ軽トラが訪れ、乾燥機ともみすり機の順番を待っている。

コンバインで刈った稲は、そのまま脱穀されてもみとなり、
その後適正な乾燥度合いに乾燥され、最後にもみを外されて玄米となる仕組み。
乾燥機ともみすり機を自分で持っている人も多いけど、
農家で組合を作って、組合で機械を持っているところもある。
私も、今年初めて使わせてもらう予定。

ちょうどライスセンターの前に、
私が今年初めて栽培した稲が実っている。
除草に失敗してしまい、草がぼうぼうに生えている我が田。
見られて恥ずかしい気持ちもあるが、
稲作一年生、失敗は失敗として受け入れるしかない。

草刈をしながら、2月頃から田んぼの準備を始めたことを思い返す。
初めてで、わからないながらになんとか形を作ろうとした3月。
水の管理も、水利組合との話し合いをしながら行った。
チェーン除草に挑戦し、4回行ったがうまく除草できず、
手で取り始めたがブヨに悩まされ、結局出穂時期と重なってしまい除草を断念。
結果、かなり草が生えた田んぼになってしまった。

意気消沈してしまったことは事実。
でも、やり始めた以上は最後までやるのは当たり前。
その中で、地域で行われてきていることを学びながら、
自分なりのやり方を開発していきたい。

月末からは本格的に稲刈り。
新米を食べるのが楽しみ。

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鶏との日々。

昨日が金魚だったからというわけではないのだが。
今日は鶏について書いてみる。
今朝の鶏の様子を動画撮影してみました。
http://youtu.be/_8FeTUSd4Ts
(動画がうまくはめ込めないので、とりあえずアドレスのみ貼付けます)

先月の19日に入雛した。
千葉県で開発された房総地鶏という品種。
元王国の会員さんで、ずっとお世話になっているA夫妻から10羽いただいた。
実は、一週間ほど前に一羽謎の死を遂げてしまい、現在は九羽になってしまったのだが。

今更ながら、私は鶏がずっと飼いたかった。
王国スタッフだった4年前に、少し飼っていたのだが、
本腰を入れて飼うのは初めて。

仲間から、鶏小屋をそっくりいただいて、移築した。
小屋の周りを鶏の運動場として準備した。
鶏の出し入れ、餌やりは娘たちの仕事。
一ヶ月間休まず、ずっとやり続けている。
最初はこわごわだった長女は、今では外に逃げ出した鶏も簡単に捕まえるほどになった。

私はと言えば、鶏小屋をより快適にするために、
あたらしく止まり木を作ったり、砂浴び場を作ったり、
いそいそと働いている。

一ヶ月経つとずいぶん大きくなるし、動きも速くなる。
えさの食いもよくなってきた。
元気に育っている様子を見ていると、うれしい気分になる。

卵を産むようになるのは150日齢くらいらしいので、
11月くらいになるのかな。
それまで、お世話を続けるのが楽しみ。
卵を産むようになったら、またいろいろ感じることがあるのだろう。

私たちがあまりに鶏にばかり目をやるので、
すぐ近くにいる犬のハッピーが嫉妬して吠えまくるのいじらしい。
彼とも遊んであげないとな。
しっかり番犬の役を果たしてくれているのだから。
(今回の動画の脇で吠えているのが犬のハッピーです)

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金魚との日々。

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今月初めに行われた納涼祭で、
娘たちが金魚すくいで持って帰ってきた金魚。

子供の頃を思い返せば、生き物を飼うのが好きだったが、
そのうち飽きてしまって結局死なせてしまうのが常だった。
今回も、結局は死なせてしまうのかな・・・とあきらめ気味だった。

持って帰ってきたその日は、家にあった間に合わせの小さな水槽に、
井戸水を入れて金魚を入れた。
えさは翌日に買ってきて、子供たちが喜んでやっていたが、
エアポンプも何もないままだと、すぐに水槽が汚れ、
金魚がアプアプと水槽の上の方で口を開け始めた。

このまま放置すると、間違いなく弱いものから死んでゆく。
「それは嫌だ!」
と思い、子供が飼いたいと言っているということにかこつけて、
少し大きめの水槽とエアポンプを購入。
エアポンプだけ買えばいいと思っていたら、濾過器や、
ポンプと濾過器をつなぐチューブも必要だということに気づき、
あわてて近くのホームセンターへ。
ついでに金魚用の砂利も2kg買ってきた。
で、全て環境を整えた上で、金魚を飼い始めたのだ。

彼らが我が家に来てから今日で2週間。
翌日に死んでしまった1匹をのぞいて、今12匹が元気に泳いでいる。
食卓の、私が座る位置のすぐ後ろに水槽がおいてあるので、
朝一番にえさをやるのが日課となった。
金魚のことはまだよくわからないのだが、生き物がいるというのはいいな、と思った。
先月には鶏が来て、こちらの世話も続いている。
生き物がいると大変だけど、じっと見ているだけで時間が経ってしまう。
じっと見るという時間を、生き物が与えてくれるのかもしれない。

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