さて、ようやく亀田病院の国会議員21人視察も終わったので、ブログをかくことができそうだ。
先日のGOさんのコメントで、友人の話として、
「土に帰れ」というのは結局都会の人が言うこと。田舎に住む我々にとっては土に帰れは当たり前の思想。現場を知らない人が、気持ちよくなるために行っている考えに過ぎない。という内容のことが言われるがそれに対してどうか?というものだった。
(共同体格差については稿を改めさせてください)
このコメントは、
1 ”土に帰れ”は現場を知らない人が言うこと
2 ”土に帰れ”は田舎に住む人にとっては当たり前だ
という二つの点で成り立っている。
1について
これは確かに、現場を知らない人が言うことだといわれても仕方のない面がある。
わたしもいろいろと都市農村交流事業をやってきたが、あ〜、この人は本当に時代のノリでやってるな〜という人はいるものだ。
しかし、こういう人だけを相手にするのは問題ではないだろうか。
”土に帰れ”という思想に限らず、自分の生活を本当に変えようとして農村に移住してくる人は増えている。
(移住暮らしに成功不成功の統計はあるのか?というコメントもあったが、きっとないと思う。論拠として不十分だが、今回に関してはとりあえず私の経験と実感に基づいて書かせてもらいたい)
ディープエコロジーや、スピリチュアル、玄米菜食、マクロビオテック、自然農など様々な思想に心酔している人もいるが、都市農村交流事業を通して地域活性化を考えたり、農村で暮らしながら一般的な仕事をしている人もいる。
話が大回りしているが、要するに現代では思想の前に体が動いている人も一定程度いるということ。
そういう人を半分揶揄するような形であげつらうのは若干的を外しているのではないか、と思う。
2について
”土に帰れ”が農村に住む人にとって当たり前だ、ということも一見正しいように見える。
たしかに、農村にとっては土が当たり前。どんな小さな家にも小さな畑があって、田んぼを持っている人も多い。
しかし、兼業であっても田んぼをやっている人は実は少ない。ほとんどの人はある一定の農家に小作に出しているのだ。
(これも、正確さを欠くが私の住む南房総鴨川を出発点として述べている)
たとえば、私の所属する消防団では、団員25人のうち、自分で田んぼをやっているのは3人のみだ。
しかも、問題となるのは”土に帰れ”という言葉で表す言葉の内容である。
単純に言うと、この思想はすべてを大地の上に立脚させて、机上の空論を並べるのではなく、実践を伴いながら社会変革、社会維持をしていくということだと考えている。
農村の人にとっては、農村に住むことは当たり前でもありやむを得ない結果であり、例えば長男に生まれたとかいう事情であったりするのだ。農村に住むことを誇りに思っている人も、少ないかもしれない。
だから、極端にいえば、”土に帰れ”はやむを得ない結果であり、それを積極的にとらえるのが都会人であったり、冷ややかに眺めているの農村の人、といえるのかもしれない。
そこで、私である。
何の因果か、私は江戸時代から続く農家の婿になってしまった。
現在田んぼには手をつけていないが、田も畑もある。
その意味では、”土に帰れ”と声高に叫ばずとも土に接するしかない立場である。
だって私はよほどのことがないと鴨川を離れないだろうから。
だから、やれるだけ畑をやるつもり。
口だけといわれることが多いので、口だけのままでいたくはないから。
元都会人として、揶揄されるだけの存在にはなりたくないから。
図らずも、私は今こういう立場にいる。
先ほど反論した中身は、私の実践と表現で説得していくしかないだろう。
選択余地ない要因で生まれつき「土」という資源配分の不平等が生じているケース、これをそれぞれの立場から、どういうふうに一人ひとりやつて、その結果としてそれぞれに足りないところをきちんと埋めていくことが大切、ということですね。
これを実現する社会システム作りのために、次にどういう政策をとるか、という議論がいずれできればいいですね。
共同体格差の議論にもつながりますが、社会システム実現作りの政策を考えることが重要になってきます。政治が自治に及ぼす影響を考慮しなければなりません。