子どもに聴くということ

安富歩さんの本に出会えたのは、幸運だったと思っている。
初めて読んだ作品は、これ。

ごくごく乱暴に要約すれば、
「東大話法とは、自分の本心を隠しつつ、自分の立場を中心に語るための話法であり、それは自分の魂を傷つけてしまう言葉だ」となる。
これを筆者の言葉でいうと、「魂の植民地化」ということになる。
この「魂の植民地化」という言葉を聞いた時、これはまさに自分の現状ではないか!とひざを打ってしまったほど。
で、実はまだここから脱却できてないのだが。

それから、これ。
何気なく本屋をぶらついているときに出会った。

論語が好きで、いろんな本を読んでいる。
まぁ、論語読みの論語知らず、下手の横好きといわれても仕方ないが。
著者の論語理解がとても刺激的で、
過ちて改むること憚ることなかれ、
過ちて改めざる、これを過ちという。
という論語の中の言葉を、「絶え間ないフィードバックによる自己改革」と解釈し、
この姿勢こそが「自由」だ、というのだ。
この解釈に出会えて、本当に良かったと思ったのを憶えている。

で、最近読んだのがこれ。

原発危機と東大話法」との二部構成のようになっている。
これも刺激的だったのだけど、
一番強調しておきたいのは、このようなどうしようもない世界からの脱却はどうすればいいのか?という問いに対して、
「私が最も大切だと思うことは、子どもの利益を最大限に考えるということ」
というところ。

筆者は、子どもの利益を考えることがすべての政治過程から排除されているというのだ。
これについては、
「子育て中の親や学校への支出を拡大することが、子どもの利益を守ることだ、というような陳腐な考えは、唾棄すべき大人の独善にすぎません」

と書いてあることで、すべて了解されると思う。
これは、社会保障と税の一体改革における「子ども子育てプラン」に対する批判として最大限に有力なものだと思う。
あのプランは、子ども自身の成長ではなく、子どもをそだてる経済的環境を整えることに終始していると思われても仕方のないものだったからだ。
むろん、経済的環境を整えることを排除するものではないが、それは本当に子どもにとって必要なものかという観点から考えてもよいのではないかという意見である。

話を戻して、子どもの利益を最大限に考えるためには、という問いに対しては、
「子どもに聞くことです。彼らは自分が何を必要としているか、明確に理解しており、それを示すことができます」
と答える。

著者の意図とは外れるかもしれないが、
私はこの言葉を信じたいと思った。
今二人の娘がいて、私は果たして本当に彼女らの声が聴けているかと思った。
私の想いを中心にしてわかったふりをしているだけではないのか?
もしかして、彼女らの声を聴くことでこれからのことを感じられるのではないか?
そこを踏み外さずに、もう一度やってみようと思ったのだった。

魂の植民地化を抜け出すためには、自分の心にどれだけ正直であれるか、自由であれるかが必要なのだ。

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