水止めとモグラ君ゴメン

王国田んぼと、房田の棚田チャレンジでやる田んぼの水止めを行いました。
月曜から雨の予報なので、雨前にやっておかねばなりません。
房田には、地主さんからお借りした時から水漏れがひどく、毎年苦しんでいた田があったのですが、今日、その穴をとうとう発見しました。直径8センチほどの大きな穴が開いていました。見つけた時は、やった!という感動です。毎年毎年うまくいかなかったのに、少し意識して動いてみると見つけることができたのですから。そこをしっかりふさいで、あとは畔際のモグラの穴をつぶしてゆきました。
モグラがいない田んぼは悲しいです。でも、モグラがいる田んぼも水漏れがあるので悲しいです。この悲しさは、モグラとうまく付き合って行ければなんとか解決します。モグラには悪いけど、張り切って穴をつぶしました。でも、彼らはすぐに穴をあけてしまうのですが・・・私は、モグラがいない悲しさよりモグラがいる悲しさを選ぼう。

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雑穀料理を食べてみた

今年は、帰農塾の7月コースで雑穀料理づくりを行います。
講師を務めてくださる方が、月一回笹谷窯http://www.sasayagama.com/
雑穀料理のお店をやっているので、お邪魔しました。
限定20食なのです!

しばらく待って、登場です!

(撮影:石井芳美)

メニューは、

・高キビごはん
・高キビ味噌じゃがコロッケ
・人参フライ
・旬野菜のもちアワグラタン
・ゆずゴボウ
・菜花のキヌアサラダ
・ふきみそ
・もちキビと春雨のスープ

です。

6番目の、キヌアサラダのキヌアも雑穀の一種です。
(雑穀にはまだ疎いです。)
肝心のお味のほうですが、はい、とても美味しかったです。
この料理は、卵も、砂糖も、牛乳も使っていないいわゆるマクロビオテックな料理です。
(マクロビオテックについてはさらに疎いので、説明は避けます。)
初めて食べるものばかりでしたが、抵抗感なくいただけるお料理でした。
かきこみたい!早食いしたい!という人には向きません。
もっとも、食べるときは50回以上噛んだほうがいいらしいので、そういう意味で味わって、落ち着いて食べられる料理でした。
雑穀料理は、日常に取り入れるというよりかは、中華やイタリアン、フレンチなどのジャンルの一つとしてとらえられれば身近になってゆくのだろうと思いました。
里山帰農塾に取り入れるのもおもしろいです。
新しくなったキッチンで雑穀料理だ!


食後にコーヒーもいただきました。
今回のお皿は、きょうの料理のために杉山さん(笹谷窯オーナー)が焼き上げたものです。
お皿から受け取ったインパクトはとても強かったです。
お皿と料理が素晴らしくとけあっていました。
笹谷窯では、カフェもやっているので、お近くに来たらぜひ足をお運びください。
(若干道がわかりにくいですが、一度行けば憶えられます!)

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麹つくり

朝はすごい雨風でしたね。
さすがに外で作業はできなかったので、事務作業をしておりました。
昼の3時間ほど抜けさせてもらって、日曜に自宅で仕込むみそのための
麹つくりを妻と行いました。
毎年2月に王国でやってきたこともあって、スムースに進みました。
上出来かどうかはまだわかりませんが。
王国で働くことで、自分でできることが少しずつ増えてきています。
チェーンソーも使えるようになりました。
危険も伴うけど、やれなかったことがやれるようになるのは楽しいです。
明日は、田んぼのクロ切りといって、畔をスコップで掘ってゆく作業を行う予定です。
それから、お昼には雑穀料理を食べに行きます。
今年の7月の帰農塾で、雑穀料理づくりワークショップを行うので、その視察も兼ねています。
楽しみだ。

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種まきday!

今日の種まき。
唐辛子、ピーマン、ししとう。
今日の移植。
サニーレタス、ブロッコリー、スティックセニョール、キャベツ。
この時期になると、だんだん気持ちも忙しくなってきます。
自宅のトラクターが故障しました。
いよいよ自然農に踏み出すのか?
ミツヲさんから、本を借りました。

自然農・栽培の手引き

自然農・栽培の手引き

とりあえずジャガイモからスタートしようかしら。

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定家明月記私抄

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

とうとう買ってしまいました。
今、T&T研究所で購入した、

堀田善衞 時代と人間 [DVD]

堀田善衞 時代と人間 [DVD]

を毎日早起きして少しずつ見ています。

堀田善衛氏は、司馬遼太郎氏と宮崎駿氏の対談集

時代の風音 (朝日文芸文庫)

時代の風音 (朝日文芸文庫)

でしか知らなかったのですが、
このDVDでの語りを聞いて以来、
これはぜひとも著作を読まねばならない、と
古本サイトを検索し、エイッと購入。
はぁ、こんなことをやっているから
本の虫と揶揄されるのだ。
でもこの本、かなり面白そうです。
藤原定家さんが一気に身近になりそうだ。

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食堂大改造

とうとう、食堂の改造に着手しました。
シンクや調理台を一新します。
といっても中古品ですが。
冷蔵庫は、2台並べました。
木曜日には、完成する予定です。
ちょっときれいになりますよ!

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出アメリカ記

出アメリカ記

出アメリカ記

教育の自給自足。

この言葉に、新鮮な響きを感じた。兵庫県西宮市で育った私にとっては、少子化世代とは言われながらも小学校は4クラスあって、一学年は160人くらいはいるのが普通だった。ところが、鴨川に来ると、今年で廃校になる地元の小学校は、全校生徒が60人である。今後もますます減るだろうと言われている。
私は、ここに来たくて、こういう仕事がしたくて鴨川に暮らしているので何ら後悔はないのだが、子どもたちはたまたまここに生まれただけである。このままここに暮らしていると、教育面であまり充実させてやれないのではないだろうか?なんてことを考えてしまっていた。

著者は言う。
「教育には二面性がある。ひとつには個人が幸福に生きるために必要な知識と能力を学ぶことであり、もうひとつは社会が社会にとって必要な人材を社会のために育成する教育だ。」
私は、ひとつめの教育を重視したいと思うのだ。いい大学に入っていい会社や国家公務員になって、たくさんお金があっても、それが幸福とは言えないだろう。私は、子どもに幸福になってもらいたいと思うのだ。
幸福についても、ヒントになる言葉があった。
「豊かで忙しい生活は幸福とはいえない。幸福な生活とは、最小限の収入と最低限の支出の生活である。・・・幸福は、豊かであっても貧しくても実現できるだろう。それは経済的な条件で決まるわけではない。」
こう考えてみると、実は私の生活はすでに幸福な生活であった。
子どもの教育が心配、と思っているが、いま私が暮らしている場所は田んぼも畑もあって、空も広くて、虫もたくさんいる。私はやりたいことをやらせてもらって収入を得ている。それに変えられるものはないだろう。
子どもには、結局のところ何があっても生き抜ける力を身につけてほしいと思うのだ。生き抜ける力があれば、なんだって自分で、周りの人とも協力して切り開いてゆけるだろう。
そのためには、親である私たちができるだけ子供たちのそばにいてやること。親が充足感を持って暮らすことが、子どもの自己確認につながるような気もする。
田舎には何もない、といわれるけど何でも作りだせる余裕も存在している。日々の時間、人生を充足させて幸福な暮らしをしてゆきたい。

悩んでいる私に、道の一つが提示されたような気がしました。

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種まきday!

春播きの作業を始めています。今日はダイコン、ニンジン、べかな、小松菜、ラディッシュ(赤白二種類)をまきました。この冬は例年に比べて暖かいので、うまく発芽してくれるかな、と期待しています。
お茶をしながら、自然王国の今後についてあれこれ語り合いました。ミツヲさんも私も、見ている方向は似ているのです。いま私に必要なのは、「やりたい!」と思ったことをどう実現していくのか、具体的に計画していき、そのストックを増やすことだと感じました。思いを現実化するのは、着実な歩みだけなのかもしれません。

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経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」何んとも長いタイトルである。タイトルを見た途端に、「当たり前だ。経済成長がなければ私たちは豊かになれない。だって、おカネがないと生きてゆけないじゃないか。」という反応が「常識」的であろう。「いや、経済成長がなくても私たちは豊かになれるよ」という人もいるだろうが、そんな人たちは理想主義者だと言われてしまうかもしれない。

でも、ダグラス氏は言うのだ。
『「常識」は必ず変わる』

たとえば、私の現場に近いところでいえば、1960年代の農業基本法は大規模農業を推進し、2000年の新基本法では農村の役割を見直し、現在も大規模農業化を推進しつつも、有機農業推進法ができたり、都市農村交流が農水省の政策になったり、忘れようとしていた農村の存在が大きくクローズアップされているのだ。今、都市農村交流事業は「常識」になっているではないか。

誰でも考えてみればわかるとおり、経済発展は人間の幸福をもたらさない。世界第2位の経済大国のわが国で、年間の自殺者数は3万人を超え、非正規労働者は解雇され路頭に迷っている。
ダグラス氏の言葉を借りれば、『経済発展は貧富の差をなくすことではなくて、貧困を利益が取れるかたちに作り直す「貧困の合理化」の構造』である。最近報道されている「貧困ビジネス」などはこの最先端を行っているものだと思う。

昨年からの金融危機を見ていても、経済発展が永続的に続くことはない。では、どうすればよいのか。
『経済成長を続けて豊かな社会を求めるのではなく、経済成長なしで、ゼロ成長のままどうやって豊かな社会をつくるか、という別の問題提起、問題の設定に変える…ゼロになったことを歴史的なきっかけにする』というのだ。
この考えは、豊かさの質を変えてゆくことにつながっていく。
競争社会を支える基本的な感情は恐怖である。おカネがなければ生きてゆけないんじゃないか、病気でも無理して働かないと解雇されるんじゃないかなどの恐怖である。この恐怖を鎮めるためには、ある程度安定した社会的措置が必要である。
その社会的措置をとるためにも、「発展」という言葉に変えて「対抗発展」という言葉が必要だという。
「対抗発展」とは、1つには、減らす発展・・・エネルギー消費を減らしたり、経済活動に費やす時間を減らしたりということ、もう1つは、経済以外のものを発展させる・・・経済活動以外の人間の活動を発展させる、市場以外のあらゆる楽しみ、文化、行動などを発展させる、という二つの意味を持つ。
もっと簡単にいえば、対抗発展は、快楽主義である。消費による快楽ではなく、われわれ人間の快楽、楽しさ、幸福、幸せを感じる能力、それらを発展させる快楽主義である。物を少しずつ減らして、その代わり、物がなくても平気な人間になる。つまり、減らすことが逆に人間の能力を発展させるのである。

この考えに、共感するところがある。
鴨川に来て以来、自分の手でやることが少しずつ増えてきた。半分仕事だけれども、ついこの前はみそづくりをしたり、銀杏の木の選定をしたり、私は昔よりも自分でできることが徐々にではあるが増えてきている。
手仕事の実感、自分にもできるという感覚は実存の感覚を増すのである。

一足飛びに状況は変わらなくても、変えるものとして現実を認識することこそがたゆまぬあゆみの原動力となるのだ。

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