みそ、仕込みました。

3月8日 火曜日


朝6時半ころに、大豆を煮始める。
ドラム缶に羽釜を置いて、近所の方に分けていただいたまきをくべる。
よく乾いていたので、簡単に火がついた。
いつでも使えるようにまきを準備しておくというのは本当に大切なことだ。
こちらが、火を入れる前の大豆。

前日から、水に漬けてある。
大豆は自家生産とはいかず、ネットで購入した15キログラム。

こちらは麹を広げたもの。

二日前に仕込んだものだが、今回は電気毛布がうまく働かず、温度調整にやや失敗し、
すこしべとついた状態で味噌に加工することになった。
麹造りは、もっと研究する必要がある。

ところどころには、白くなっている部分がある。
うまくいっているともっときれいに”花”が咲くのだが…
次女が、祖母と一緒に麹を分けている姿。

さて、火入れ後2時間半くらいたつと、豆が煮上がった。
大豆を立てにして指でつぶすと抵抗なくつぶれるくらいまで煮るのがポイント。
火入れ後の大豆。

80リットル入る船に入れて、豆を冷やす。
麹は高温を嫌うので、35度くらいまで冷やさなければならない。
扇風機も使う。

そして、冷ました大豆に塩と麹を入れ、よく混ぜ合わす。
味噌ミンサーに入れて、作業スタート。
(ここからの写真は、もうすぐ5歳の長女が撮影。手ブレはご寛恕ください。)

昨年導入したこの機会のお陰で、作業効率は大幅にアップした。

できればもう少し使ってやりたいのだが、今のところ一年に一回しか使っていない。
こんなところにも、「シェア」の芽があるとは思うだが…

ミンサーでつぶしたみそのもとを、丸めて。
長女はすぐに飽きてしまうのだが、次女は熱心に作業を続ける。

こんなふうに仕込みたるに投げつける。

最後の写真をとり忘れたが、米麹15キロ、大豆15キロ、塩7キロで仕込むと、
合計して62キロの味噌を仕込むことができた。
家族総出で、作業が終わるとぐったりしてしまった。

今年は、二ケ月後に様子を見て、場合によっては天地返しも行ってみたい。
一つ一つの作業に検証を加えて、よりよいものを作りたいと思うのだ。
ではまた、二ケ月後!

以前のブログを読む

養老孟司の大言論1

雑誌「考える人」に9年間連載されていたものの書籍化。
本書で展開される諸論は、一貫して「脳と身体」「都市と田舎」がテーマとなっている。

都市のことを、著者は「脳化社会」といい、「ああすれば、こうなる」という社会であるという。
すべてが予測可能、コントロール可能であるべき社会とでもいおうか。

それに対して田舎は、「自然」であり、手入れをすることが必要なものとなる。
すべてが思い通りになるわけではなく、私たちにできるのはそれに手を入れながら、
それとつきあっていくことだけだということ。

著者に本を通して出会ったのはもう15年くらい前になると思う。
大学生から20代にかけて、たくさんの著書を読んだ。
最近は少し離れていたのだけど、今回の出版をきっかけに再び読み始めた。

ここに書かれていることは、ある意味で警世の書ということになるのだろうが、
私にとっては、まさにこれからやっていきたいことが書かれてある。

それは、大地という自然とつきあいながら、自分の生活を行い、都市へ発信し、交流を持つこと。
すべてを都市化してしまおうという流れに対する、ささやかではあるが根強い抵抗を行う。
あえて抵抗といったけど、それは権力的な活動ではなく、実体をそこに作ってゆく活動。
妥協を繰り返すように見えながら、芯は決して枉げない活動。
地域自治を実現するための行動。

「希望とは自分が変わること」副題となっているこの言葉に、震えた。

以前のブログを読む

楽喜舎農園(仮)ことはじめ

楽喜舎農園(らっきしゃのうえん)と、仮に名づけて菜園を始めたいと思った。
将来的に自分の現場を作っていきたいという思いからである。

とはいっても、まだ確たる方針はないのだが。
以前に「知足農園」としてしばらくやってみたが、長続きしなかった。
だから、というわけでもないのだけど古いノートを見てみるとこの名前でやろうと思った時期も
あったようで、それを再び使ってみる次第。

3月3日(木)雛祭りの日。
数日前からの雨で、粘土質の畑はじっとりと湿っていた。
しかし、あまり休みがない中でこの日にぜひやってしまいたかったのがじゃがいも定植。

種とりをしたかったので、男爵を考えていたのだが、地元の種苗屋のおばあさんに、
「今はみんな北あかりだよ」といわれ10キロ購入。
北あかりというのは、男爵と何かをかけ合わせた品種で、ホクホク度が男爵より強い。
男爵より少し収量が下がると言われている。

今年はこれを、無農薬無肥料栽培でやってみようと思っている。
木村秋則さんに、明らかに影響されているのだが。
著書を読むと、自分でもなんだかやれそうな気がするのだ。
参考書は、主にこの2冊。

こちらは、自然栽培の実践者のレポートが多数載っている。

木村さんは、「畑を十分に乾かしてから作業しなさい」といっているのだが、
早速その教えを守ることはできなかった。
ただし、マルチを半年近くはりっぱなしにしてあるうねが3本あったので、
作業するのその日にはがして、ジャガイモを植えることにした。

最初の二つの畝は、大豆後。大豆を抜いてみて、根粒菌があまりついていなければ
作物が育つのに十分な肥料があるということだったので、ここに肥料区と無肥料区を作ってみることにした。
マルチをはがして、トラクターで耕す。
う〜ん、予想していた通り、マルチをはってあったとはいえ、土をかなり練ってしまった。
三列畝を作って、25センチ間隔でじゃがいもを植えたのが以下の写真。
一番左はしだけ、鶏糞をひとつかみいれてある。

全部を無肥料でやるのは怖いため、入れてみた。

後はすべて下の写真のように、何も入れていない。

で、残りの畝は、最初マルチをはったまま穴を掘ってじゃがいもを植えようと思ったのだけど、
だんだん疲れてきて、時間もなくなってきたのでマルチをはがし、
トラクターでうなわずにそのまま溝を掘ってじゃがいもを植えてみた。
トラクターを入れていないだけ、マルチに守られていた畑の部分に水分が少なく、
木村さんの言っている状態に近いかなと思う。
土よせをしているところ。

今回は、今までやろうと思ってしていなかった、
「畑に生草をすきこまない」というのを結構意識して行った。
生草が入ってしまうと、土中での分解過程でガスが発生し、
作物の成長に影響を与えるため。
木村さんはもちろんすきこまないし、これは農家の間では常識に近いのだけど、
面倒くさいのもあって、ずっと適当にやってきた。
自家菜園をぼつぼつ始めて6年目、そろそろ本気を出さなければ「光陰矢のごとし」。

午前中の作業をやった後の私。

facebookに登録する写真がほしかったので、恥ずかしさもあったが妻に撮影してもらう。
だんだん恥ずかしさもなくなるだろうか。

自分自身をメディアとしてどういう発信ができるのか、実践と試行錯誤を始める。

以前のブログを読む

藤本了敏さんのこと

藤本了敏さんが亡くなったと聞いたのは、先月の28日のことだった。
2月27日午後9時30分御逝去。享年88歳。

藤本了敏さんは、故藤本敏夫氏(鴨川自然王国創立者)の御母堂である。
藤本さんが鴨川に居を移し、農的生活を始められたころに、鴨川に移ってこられて、
それから鴨川での藤本さんを支え続けた。

私が初めてお会いしたのは、7年前の8月。
加藤登紀子さんを王国に訪ねた時だった。
鴨川行きのバスを一本乗り過ごし、夜遅く王国入りした私を温かく手料理で迎えてくれた。

その9月から、私は王国に住み始めた。
普段はおばあちゃんと話することもあまりなかったのだけど、
機会があれば自宅に伺ってお食事をいただいたりすることもあった。

元気だったころは、歩いて2時間以上はかかる近くのスーパーまで行ったり来たりしていたそうだ。
「え〜、おばあちゃんそれ大変やったでしょ?」
て聞いたとき、
「でも、楽しかったよ。季節によって風景が違ったしね」
と微笑んだお顔がとても印象に残っている。

スーパーの近くの薬局のおばさんは、
「藤本さんのおばあさんは、キセルでたばこを吸っていて、粋だったよ」
と言っていた。
私が遊びに行くと、キセルとインスタントコーヒーがいつもおいてあった事を思い出す。

私が今の妻に結婚を申し込みに行くときは、ネクタイがないことに気がついて、
おばあちゃんの家に、「おばあちゃん、藤本さんのネクタイ余ってませんか?」といっておうちに上がりこみ、
ベージュのネクタイをお借りしたのだった。
返しに行ったら、「あんたにあげるよ」といわれて、そのままいただいた。
そのネクタイは、今も使わせてもらっている。

それほど密接なつながりもなかったのに、亡くなってみるとどうしていろんなことを思い出すのだるう。
もう何もお声をかけることもできない。
鴨川に来て、初めて知り合った人が亡くなって、とてもさみしい。
御冥福をお祈りします。

以前のブログを読む

田んぼのくろきり!

昨日土曜日は米どっぷりプロジェクト(通称:米プロ)の3回目。
1回目はほだ木切り、2回目はしいたけ、なめこ、ひらたけのコマ打ち。
米どっぷりプロジェクトと銘打ちながら、田んぼに関する作業はしていなかったのですが、
今回ようやく一回目の田んぼ作業となりました。
梅の花が、咲いています。

みんな思い思いの格好、というかヤッケ上下や作業ズボン、ジーパンといったいでたちでごくふつうの格好。
みんな鴨川に住んでいるので、作業着姿もすっかり板についています。

今日の作業はくろ切りです。
くろというのは、田んぼの畦のこと。
畦を作ることで、田の水をためるための堰となります。

仕事のやりかたを教わって、いざ開始。
今回の田んぼは、、10年〜15年ほど田んぼを休んでいたので、あぜと田の部分が同じ高さになっています。
田の水がくろを越えて土手にかかると、だんだんと土手が柔らかくなり、そのうち崩れてしまいます。


これが何も作業していないところです。

畦と田の部分にスコップを入れて、畦に盛ります。

おっと!

モグラかザリガニの穴を発見!!

穴を直しているところです。
穴がどこまで続いているか確かめて、そこに土をつめて土で叩いて、整えます。

だんだんと畦ができてきました。


少しずつ、田んぼらしい姿になってきました。


作業しているそばで、子供たちが遊んでいます。

持ち寄りでご飯を食べた後、午後からは下の田んぼへ!

3日前の花粉大量飛散により、花粉症の症状が出ているメンバーはつらそうでした。
でも、一生懸命です。

王国にいたころは、毎年栽培している田んぼだったので、
今回やったようにくろをしっかり作ったのは初めてでした。
一つずつ、体験してマスターしていきたいです。

次回は育苗ハウスのビニール張りを行う予定です。
これからは、稲の種まき準備、そしていよいよ稲の種まきと、
田んぼ作業がどんどん始まってきます。
楽しみです。

以前のブログを読む

やせれば、美人

著者の本が好きで何冊か読んでいたので購入してみる。
ダイエットの”達人”の語りも興味深かったが、
最終的には、「もう、いいや。これは食べなくても」
と思うことだった、というあたりに膝を打った。

「食べてはいけない」ではなく、
「食べなくてもいいや」という選択をしたことが
自分を楽にするのだと思う。

最近読み始めたこの本にも通じるものがある。

以前のブログを読む

昨年12月から、地域の有志で「米づくりどっぷりプロジェクト(略称:米プロ)」というのを始めた。
地域の人から声掛けを受けて、「やってみたい」というメンバーが集まった。
ゆくゆくは拡大していきたいのだけど、今は私たち自身が経験を積んで実力をつける時期、
という意味合いもあり、多くの人々に声掛けはしていない。

そんな中、昨年12月に我が家の山に生えているならを伐採し、玉切りにして保管しておいた。
今日は、それのコマ打ち作業を行った。


山においてあるほだ木をとりにいっているところ。

ドリルで穴をあけ、コマ打ちをしているところ。

コマを入れて。

ハンマーで打ちこむ。

木が足りなかったので、急遽伐採。

こんな感じで、山道に並べる。

ひらたけ、なめこは今秋に出るかもしれない。
味噌汁や、ムニエルが楽しみ。
シイタケは来年の秋まで、じっくり管理する予定。

この米プロは、一からお米作りを本気で学ぶ、という点に取り組んでいる。
来月は、クロ切りを行う予定。
クロというのは、田んぼの畦を指す言葉で、このクロをしっかり切ることで、
田んぼに水がたまる、というわけ。

楽しみがいっぱいだ。

以前のブログを読む

主体を作るということ

日々の活動の中で、「これをしたい!」という思いがあっても、
すぐに取り掛かれないことがある。
それは仕事上の問題であったり、そうでない面もあるのだけど。
そして今の私は、戦術上も覚悟のうえでも、
「誰か責任をもって手を挙げてくれないかな」
という思いでいる。
そんな自分の状況を客観的に見てみると、
「今の立場ではできないと思っているから、誰かが手を挙げたことについてゆこう」
といった状況。
この状況は、私にとって本来的に好もしい状況ではない。
自分で何かがやれる、と思っているわけではないけど、
本当なら自分が手を挙げて進めていくべきことだと思っているからだ。

考えを吐露しただけの文章になってしまったが、投稿する。

以前のブログを読む

大政翼賛会について

大政翼賛会前後 (ちくま文庫)

大政翼賛会前後 (ちくま文庫)

以前から気になっていたのと、最近かまびすしい「大連立構想」が語られる時、
大政翼賛会の二の舞だ!」という批判の声を聞いて、
大政翼賛会とは何だったのか、という興味でこの本を含めて何冊か購入。

手始めに本書から読み進めた。
結論から言うと、大政翼賛会の概要を知るには物足りなかった。
というより、基礎知識のないまま読み進める本ではなかった。

というのも、本書の前半は筆者が中央公論社に勤めていた時のこと、
後半は、興亜部から文化部に異動し、読書運動に従事したことが書かれているからなのだ。
前段で書いたように、今大政翼賛会が語られる時は、政党がすべて解党して、
大政翼賛会に結集したために、議会の批判勢力が著しく減少し、その結果軍部の専行を招くことになった
という文脈で語られるからだ。
ところが本書を読むと、大政翼賛会は、政治運動ではなく、国民的な運動を起こそうとしたということが書かれてある。
今になってみれば、大日本産業報国会などと言われてもピンとこないのだが、当時はこのようなことが国策として行われていた、ということを再確認した印象。

大政翼賛会の概要を知るには不十分だが、実はその本の眼目はそこにはない。
筆者が大学を卒業して経験した様々な社会経験が克明に描写されていて、
昭和15年から18年くらいまでの世相が詳しく感じられる。
国民がいかに「新体制」を望んでいたかが伝わってくる。
時代状況の閉塞の中で、それなりに息抜きをしながらも、だんだんと、まるで真綿で首を絞められるように生活が苦しくなってくる。
その閉塞を打ち破るために、大きな期待をもたれて始まった大政翼賛会が、思いきっていってしまえば張り子の虎のような組織だったことも書かれてあり、意外な面持ちがする。

大政翼賛会とは何だったのか、もう少し調べてみたい。
何か関連する資料をご存じの方、教えてくださればありがたいです。

以前のブログを読む