活字中毒な私は、いつでもどこでも本を読んでいる。
インターネットを始めてから、毎日いろんなブログを読んでいる。
メールマガジンもとっている。
おまけに、自分のブログも書いている。
困ったことに、私はド近眼である。
めがねをはずすと、日常生活が困難なくらいだ。
本当に自分にとって必要な情報は何か?
一日一時間くらいでパソコンをやめられる体勢にしよう。
このままでは、大好きな本が読めなくなってしまうよ。
Experience your rural days
午前6時過ぎに東京に着いた。
近くの定食屋に入る。
そこには、ドーハアジア大会の選手たちが
6人、ご飯を食べていた。
「帰ってきて初めての日本食やのに、
味噌汁がぬるい」
と言っていた。
「ピザとスパゲティだけは見たくない」
とも聞こえてきて、ドーハでの食事情を
垣間見た。
「地元の新聞で一面だったよ」と言っていたので
結構活躍した選手なのだろう。
が、スポーツにあまり関心がない私には
誰だか特定することはできなかった。
朝食後、鴨川行きのバス「アクシー号」に
乗り込む。
寝たり起きたりを繰り返しながら、福祉センターに
たどり着くと、妻子が待っていた。
「たまちゃん、帰ってきたで〜!」
と言ったのに、娘、無言。
「あなた誰?」と見つめている。
私、無言。
たった一週間でそなたはわしを忘れてしまいおったのか!!
今死んでもきっと憶えていてくれないんだろう・・・
結局娘は一緒に風呂に入るまで
なにか落ち着かなさそうな顔をしていた。
風呂に入ったらちょっと関係が近くなった気がした。
う〜ん、あまり離れるのは寂しいな。
帰ってくると、早速仕事だ。
たまっている仕事をバリバリ片付ける。
一週間の休息を経て、新しい気力が
わいてきているようだ。
締め切り間近の原稿を仕上げなければ!
自然王国も年の瀬、忙しい時期を迎えます。
みなさま、お体ご自愛くださいませ。
京都から夜行バスで帰ります。
ほろ酔いコンサートでは、たくさんの人に協力してもらいました。
今バスの中なので終わります。
最近、故あって格差社会に関する
本を読んでいる。
「格差社会」へのアプローチ、
解決法がそれぞれ示されている。
共感できるのは、格差が発生するのはやむを得ないが、
その格差を何とか是正する方策を採るべき、という点だ。
人々が希望を持って働ける政策を採るべきなのは
もっともな意見である。
上記の本は、性質上社会提言を目的としているので、
社会政策に言及しているのは当然だ。
でも、私が社会政策に言及するのは、ちと的はずれな
気がする。
彼らの出した提言を「こんなんやっても状況は
かわらへんって」と切り捨てるのは簡単なことだ。
ここで問題となるのが、
「じゃ、あなたの思案は?」という問いだ。
私に何ができるかといえば、
今やっている現場からの提言だと考える。
この格差社会の中でどう生きていくのか?
という問いは私にとって切実なものだからだ。
とはいうものの、実はまだ提言といえるものがないのだ。
(ずっこけてしまいました。)
なんせ、未だ確固たるものがない。
今の生活がいつまで続くかもわからない。
でも、そんな中で一つだけあるものがある。
それは、「希望」だ。
この場で何かをやり遂げよう、
もっともっとがんばってみよう、
と思えるのは希望を感じているからだ。
「希望格差社会」の中で、私が今
希望を持てているのは、とても幸せなことだ。
この思いが単に主観的にすぎないのか、
それとも一定程度他の人に受け入れられるものなのか、
それを探求していきたい。
画像は、阪神電車の急行電車です。
これに乗って、何度も甲子園〜梅田間を
往復したことか。
当たり前だった生活が懐かしく思える日が
くるのですね。
高松へやってきた。
加藤登紀子のほろ酔いコンサートでの募金活動のためだ。
高松には、学生時代に一緒に韓国のワークキャンプに行った
74歳のおじいさんがいる。
高松空襲の語り部であり、「ユーテ」というコミュニティ紙の主宰者でもあり、
毎日をとても元気に過ごしていらっしゃる。今日は、忙しい中募金活動の手助けをしてくださった。
登紀子さんのコンサートは今日も本当に良くて、
最新アルバムに入っている『愛しかない時』をやってくれたときには、感動した。
ライブで聞くと、全てを全身で感じられる。唄によって勇気づけられることは本当にあるのだな。
募金活動は、トキコプランニングや会場のスタッフ、それから有志のみなさんのおかげで、
予想以上に集まった。
ビバ高松のみなさま!
みなさんの善意を受けて、これからの活動に
つなげてゆきます。
ありがとうございました。
実は、高松遠征にさいしては、讃岐うどんを食べまくるつもりでいたが、
大阪での用事がおわらず高松入りが遅れたため、その野望は果たせなかった。
やむをえない、とあきらめていたが、
今日手伝ってくださったおじいさんの家で、しっぽくうどんをごちそうになった。
一杯を味わって食べていると、奥さんが、
「はよ食べまい。次のうどんぬくめてあるよ。」
と言ってくれたので、お言葉に甘えて二杯もいただいた。
あ〜おいしかった。
ビバ高松!
以前のブログを読む
「あのな、人間ていうのはな、人生の決断をしたとき、
それが人生の盛りなんだ。」
小牧さんという、75歳のおじいさんの言葉だ。
題にした歌は、小牧さんが詠んだものだ。
彼は、ハンセン病にかかり、58年間を鹿児島の療養所で過ごした。
75歳になり、日本財団の誘いで中国は桂林に旅行し、
現地のハンセン病患者たちと交流を持った。
そこで彼が見たのは、自分が戦後まもなく受けていたような
不十分な治療であった。
自分も何かしたい、なにかせなあかん。そんな彼を動かした存在がある。
原田僚太郎、28歳。2003年4月に早大政経学部を卒業後、
単身中国にわたる。
原田は、広東省にある67箇所のハンセン病村をまわり、
現地の大学生とともにワークキャンプを組織し、
ハンセン病に対する支援ネットワークを作る活動をしている。
小牧さんは、原田と出会うことで、療養所を退所し、
原田とともに中国のハンセン病のために活動を始めた。
小牧さんは私財を投じ、原田は日本の支援者のカンパのみで
生活、活動をしている。
中国のハンセン病患者たちも、日本と同様差別と偏見の目に
さらされてきた。
中国国内においても、忘れられた存在になっていた。
しかし、原田がハンセン病村周辺の大学をまわり、
アピールしていくことで、ともに活動する学生が出てきたのだ。
原田はよく、「なぜ中国なの?日本にもハンセン病の問題はあるし、
ほかにもやるべきことがあるんじゃないの?」
と問われるらしい。
それに対して、原田は明確に答えられなかったそうだが、
最近は、「ハンセン病の問題に、日本も中国もない。
現に、自分が中国で活動していることで、日本で(小牧さんという)
社会復帰者が出てきた。中国でもハンセン病村を出て、
社会で働く人がでてきたんだ。
全部つながってるってわかったんだ。」と言っている。
この言葉を聴いて、今私にも何かやれることはないか、
と思う。
実は、原田は私が学生時代に所属していたワークキャンプの集団、
FIWC関西委員会の兄弟委員会の関東委員会に所属していた。
同じ活動をしていたから、というのではないが、
遠く日本からできる限りの支援をしたい。
今回、加藤登紀子のほろ酔いコンサートにおいて、
原田と小牧さんの中国での活動を支援する募金を
行うことに決まり、現に12月1日の仙台講演から
スタートしている。
幸い、協力してくれる人がたくさんいて、うれしい。
私は、来週の月曜日から土曜日まで里帰りするのだけど、
火曜日には高松公演、土曜日は京都公演で
募金の呼びかけをする。
ほろ酔いコンサートにお越しの祭はぜひご協力下さい。
私は29日の新宿公演に行く予定です。
ちなみに、今回の文章は西尾雄志氏の
「散るもよし 今を盛りの 桜かな
― ハンセン病元患者、75歳の社会復帰 ―」
http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/rupo17th_2
に依拠しています。ありがとうございました。
この作品は、第17回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」優秀賞を受賞したものです。
(蛇足ですが、彼も私の学生時代からの友人です。
う〜ん、私もふんばらねば!)
冬に草刈をすると、春まで草を刈らずにすむ。
これをやらないと、年が越せない。
というわけで、今年一年の感謝を込めて、
房田の草刈、アスパラガスの草刈、
風の家周辺の草刈をした。
小雨が降っていたが、最後まで刈り切った。
「終わったなぁ」と思うと
なんだかすっきりした。
しばらく前から行きたいと思っていた
にミツヲさんと二人で行ってきた。
農場主の川田さんはもうすぐ34歳。
栃木での農業研修を経て、2年前に
三芳村に就農した。
農業機械を使いながら、たった一人で
1町5反の田畑を経営する。
なるほど、効率的なやり方だ。
しかも、無理が少ない。
朝から晩まで働いても、
一人でこれだけやるのは本当に大変だろう。
でも、彼は明るいのだ。
さっぱりとしていて、きっぱりとしている。
話していても、本当に気持ちがいい。
自分もこんな風にすっきり生きていきたい、と思う。
シャンティファームでは、王国農園にも
適用できそうな工夫をたくさん教えてもらった。
近い年代で、農的生活を送っている
仲間と出会うのはとてもうれしい。
こちらからも何か役に立てることがあれば
ぜひ取り組みたいものだ。
王国には、王国なりのやり方もあるわけだし。
Kaiさんが、コメントを寄せてくれたので、
少し「ざ・こもんず」(12月1日の記事)
から引用したい。
「人間は基本的に人との共同や、
自然・労働・身体の調和を求める生き物である」
この言葉に、賛同した。
実は今日、新聞記者さんが取材に来てくれたのだけど、
そのとき、「たくさんの若者たちが農村に入ってきて
いますが、それについて、なぜそうなのだと思いますか?」
と聞かれた。
私が答えたのは、「それは、生活に現場感を
取り戻すためだと思います」というものだった。
これは私の実感なのだが、甲斐さんのこの言葉自体が
もっと適切な表現なのだと思う。
私がここで暮らしてなぜ精神的な充足を
得ているかというと、
ここには私の存在感が、現実として存在しているからだ。
確かに都会でも、自分の存在感はある。
しかし、具体的に足跡が見える仕事は
そう簡単にはないように思う。
さらに、農村で暮らすこと自体が、何百年も
続いてきた共同体の中で暮らすということであり、
それは大きな流れの中に包まれていることの
実態でもあるのだ。
「つながっていたい」と欲望せずとも、
そこらじゅうの人とつながらずにはいられない(笑)。
それがいつか苦痛になるのかもしれないが、
今は興味と楽しみ、喜びのほうが勝っている。
文献でしか読んでこなかった村の実態、
ある思想によって作られた共同体ではない
「生活を営むための共同体」で暮らす実感が
私に大きな精神的充足をもたらすのだろう。
そして、農村で暮らすことが簡単ではない人たちが
行き来できる場所が自然王国であり、
私が取り組んでゆきたい業なのだ。