「超訳 論語」雑感

論語読みの論語知らずとそしられる事を承知の上で。
論語と言えば、論語 (岩波文庫)や、論語〈上〉―中国古典選 (朝日選書)
論語〈下〉―中国古典選 (朝日選書)がスタンダードとされている。

でも、最近私が何度も読んでいるのは、

これである。

著者の安富歩氏の考えが独特で、その考えを自分でも意識的に取り入れる事で、
自分が自由になった気がするのだ。
例えば、有名な一節。
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず」(為政2−4)は、
金谷治訳によれば
「私は十五歳で学問に志し、三十にして独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず・・・」
となる。

ところが、本書では、
「私は十五歳で学ぶことに志した。それは、外にある知識を自分のものとするために、いったん、自分の感覚を明け渡す賭けでもあった。
三十歳になってようやく、学んだことを自分のものにして、自分自身の感覚を回復し、自分で立つことができるようになった。
四十歳になって、それまでの自分が、進むべき道がわからずに惑っていたにすぎないことを思い知った。そしてようやく、進むべき道が自分の前に広がっていることに気づいた。」
となっている。

これが本書の超訳たるゆえんだ。
著者がどんな思いで論語を読んだのか、それが痛いほど突き刺さってくる。
古典とは、本来このように、血の出るほどの思考を経て読まれるべきものなのかもしれない。

数えで39歳になる今年、この先どうしていこうか、どうしていくべきなのか、未だ惑っている。
目の前にあることを放っておいて、周りの人がどう思うかがどうしても気になってしまう。
今日一日、いろいろと考えていたのだけど、考えているだけでは答えがでないのが常だし、
きっと私自身の前にも「進むべき道」が広がっているのかもしれないことに思いを致し、
明日行動を積み重ねようと思う。

無心になるほどの取り組みを、したい。

以前のブログを読む