日本はなぜ「大東亜戦争」を戦ったのか

on the way journalというpodcastで、「田原総一郎のタブーに挑戦」という
番組がある。この番組の中で、なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのかが紹介されていたので、早速購入。

というのも、ここ何年かアジア主義にずっと関心を持っているからだ。
自分がとても想像できないような動きをした人々が実際にいたということへの憧憬と、
今でもこのようなことができるんじゃないか、そうするためにはどうすればよいのか?
という問いを抱えての関心である。
アジア主義者たちを、国家主義者、右翼の大物としてだけ片づけるのでは、
彼らの存在をあまりにも矮小化してしまうのではないかと思う。

本書は、筆者がジャーナリストであることもあり、直接歴史学者に見解を聞きに行くところが面白い。
自分だけの考えじゃなく、学者はどう考えているのか?、
当時の人々はどう考えていたのか?というところを謙虚に追及しているところが参考になる。

アジア主義者たちは、日本と中国大陸との間を侵略関係のみにとどめず、
中国大陸のため、そしてもちろん日本にとって必要なことは何かと考え行動してきた。
本書ではその代表を、松井石根頭山満大川周明北一輝としている。
歴史から見れば、彼らの存在は今となっては傍流と言えるかもしれないが、
当時は本当の大物だったろう。

筆者も、大東亜戦争を聖戦だったと言ってるわけではないが、
当時としてこう考えて動いてきた、というところを概略ではあるが丹念に記述している。
単に英雄物語に終わらせていないところがさすが。
カリスマ的に描かれていないからこそ、客観的に浮かび上がってくる彼らの行動に感銘を受ける。
身を捨ててなすことがあった時代だった。
今も、あるのかもしれないが。

私は小市民的な幸福を捨てることができないのだが。

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日本策士伝〜資本主義をつくった男たち

日本策士伝―資本主義をつくった男たち
というタイトルに惹かれ、何気なく古本屋で購入。
頭の中は政治でいっぱい。

本書では、明治中期から昭和初期までの経済界や政界で活動した人々の物語で、
登場する人々の個性が強すぎ(笑)。

今では一般的に語られない人々も多い。
最近、なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか
で再び出会ったような、
頭山満北一輝などの名前も見える。

この当時の人々、というか日本を動かしていたような人々は、
本当に人間が大きく見える。
原敬にしても、刻苦勉励という言葉がお題目でないほど努力をしているし、
今では黒龍会の親玉、右翼の大物としてしか描かれない内田良平
20代初めに炭鉱の経営を任され、毎週末に40キロを歩いて福岡の自宅に帰るとき、
古事記を朗誦しながら帰ったというエピソードには、戦慄すら覚える。

今とは時代が違う、と言ってしまえばそれまでだが、
それにしても本書に出てくるような人々は稀有であったろう。
一介の浪人が孫文や宗教仁を助けて中国革命の支援をするなんて、
そんな大それたことをやっているのだから。

天下国家を論じることがいいわけでもないだろうが、
大きな視点でものを見ることで、日常の些末事に
気を殺がれることも少なくなるかもしれない。

一般的な日本史の通史には描かれていないことも多いので、
視野を広げるための良書と言える。

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1か月を迎えて

カフェで資料を検討して、車に乗り込んでエンジンをかけようとしたその時、
大きな揺れが襲ってきた。すぐ近くで農作業をしていた農家さんは田んぼにへたり込んでいた。
「これは大きな地震が起きた」と、急いで車に乗り込んで状況確認へ向かう。
ラジオで確認すると、宮城県沖で大地震が起きたとのこと。

脳裏には、16年前の阪神大震災での体験がよぎる。あの時は、電気はすぐに復旧したものの、
水道とガスが止まってしまった。急いで自宅に連絡して、風呂に水をためるように伝える。
16年前はマンション住まいで、食べるものもなかったのだが、
今回はコメ、みそ、しょうゆが一年分あるので、その面では安心。
自給自足とまではいかないまでも、最低限の食料は確保できている。
しかし、こんな時には集落の自家水道組合から脱会しているのが残念。
市の水道だけに頼っている現実がある。

11日は偶然にも、昔からの友人がNZから帰ってきて、我が家に宿泊する予定だった。
彼は茂原で地震にあったが、状況も不明の中ヒッチハイクで御宿までやってきた。
津波警報が出ていて、かなり怖かったが、えいままよ、とお迎えに行く。
3年ぶりの再会を、ろうそくの中で喜び合った。

翌日からは、南房総各地の被災状況を聞いてまわることと、
twitterやラジオを通しての情報収集を病的に続けた。
ただ、茫然としていた。
東京電力原発事故が、それに輪をかけた。
不安は高まってくるし、デマは飛び交うし。
自分の無力さを痛感していた。ろくな動きができなかった。

そんなとき、ある人から、「旧大山小を避難所にしてはどうか」と声をかけられた。
最初聞いたときは、すぐに動けなかった。
避難所を作るって、そんなこと実現できるんだろうか?という思いが先に立った。

相談するつもりで声をかけたら、なんとその日に「今から動こう」と決まってしまった。
それが3月17日。それから3日後の3月20日には、地元から、南房総から、東京千葉から
約80人の人が集まって一気に準備作業を始めた。
今回の避難所を、「鴨川市大山支援村〜がんばろう東北」と名づけることも決まった。
http://hinansho.awanowa.jp/
また、地域の顔役の方が代表となることを承諾してくれた。
それから、3月26日、27日と大規模に作業をし、その間地域へのあいさつ回りも行い、
28日からは事務局を毎日開けることにした。

そして、今日に至る。
まだ避難者はいらっしゃってないのだけど、
私たちは今日も準備を進めている。

いついらっしゃってもいいように、なるべくゆったりできる空間を作ろうとしている。
営業、というわけではないけれど、一度鴨川を見てもらおう、
避難所でのストレスフルな暮らしから少し骨休みしてもらおう、という
コンパクトなツアーも企画している。

みんな時間の都合をつけて、ほぼ毎日ミーティングを行っている。
アイディアが出れば、それを前向きに議論し、実現する方向に持ってゆく。
こんなときに不謹慎な、といわれるかもしれないが、
そのスピードは驚くばかりで、気持ちよささえ感じる。
心が折れそうになるときもあるが、真摯な人々が周りにいるお陰で、
また立ちあがっていける。
ともに進めている人々に本当に感謝だ。

時が過ぎて、今日は娘が5歳を迎えた。
予定より一カ月早く生まれてNICUに入っていた彼女も、
今では外を元気に走り回り、よくしゃべる。
今日から、バスで幼稚園に通うようになった。
子どもの成長する姿を見るたびに、
自分も元気に暮らしてゆこうと思うのだった。

鴨川市大山支援村〜がんばろう東北http://hinansho.awanowa.jp/
ご覧ください。

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私は、無事です。
元気にしています。
家族も、元気です。
今は事務所に出勤していますが、
私のできることをこの場でやっていきます。
皆さんも、皆さんの場所で落ち着いて過ごしてください。

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みそ、仕込みました。

3月8日 火曜日


朝6時半ころに、大豆を煮始める。
ドラム缶に羽釜を置いて、近所の方に分けていただいたまきをくべる。
よく乾いていたので、簡単に火がついた。
いつでも使えるようにまきを準備しておくというのは本当に大切なことだ。
こちらが、火を入れる前の大豆。

前日から、水に漬けてある。
大豆は自家生産とはいかず、ネットで購入した15キログラム。

こちらは麹を広げたもの。

二日前に仕込んだものだが、今回は電気毛布がうまく働かず、温度調整にやや失敗し、
すこしべとついた状態で味噌に加工することになった。
麹造りは、もっと研究する必要がある。

ところどころには、白くなっている部分がある。
うまくいっているともっときれいに”花”が咲くのだが…
次女が、祖母と一緒に麹を分けている姿。

さて、火入れ後2時間半くらいたつと、豆が煮上がった。
大豆を立てにして指でつぶすと抵抗なくつぶれるくらいまで煮るのがポイント。
火入れ後の大豆。

80リットル入る船に入れて、豆を冷やす。
麹は高温を嫌うので、35度くらいまで冷やさなければならない。
扇風機も使う。

そして、冷ました大豆に塩と麹を入れ、よく混ぜ合わす。
味噌ミンサーに入れて、作業スタート。
(ここからの写真は、もうすぐ5歳の長女が撮影。手ブレはご寛恕ください。)

昨年導入したこの機会のお陰で、作業効率は大幅にアップした。

できればもう少し使ってやりたいのだが、今のところ一年に一回しか使っていない。
こんなところにも、「シェア」の芽があるとは思うだが…

ミンサーでつぶしたみそのもとを、丸めて。
長女はすぐに飽きてしまうのだが、次女は熱心に作業を続ける。

こんなふうに仕込みたるに投げつける。

最後の写真をとり忘れたが、米麹15キロ、大豆15キロ、塩7キロで仕込むと、
合計して62キロの味噌を仕込むことができた。
家族総出で、作業が終わるとぐったりしてしまった。

今年は、二ケ月後に様子を見て、場合によっては天地返しも行ってみたい。
一つ一つの作業に検証を加えて、よりよいものを作りたいと思うのだ。
ではまた、二ケ月後!

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養老孟司の大言論1

雑誌「考える人」に9年間連載されていたものの書籍化。
本書で展開される諸論は、一貫して「脳と身体」「都市と田舎」がテーマとなっている。

都市のことを、著者は「脳化社会」といい、「ああすれば、こうなる」という社会であるという。
すべてが予測可能、コントロール可能であるべき社会とでもいおうか。

それに対して田舎は、「自然」であり、手入れをすることが必要なものとなる。
すべてが思い通りになるわけではなく、私たちにできるのはそれに手を入れながら、
それとつきあっていくことだけだということ。

著者に本を通して出会ったのはもう15年くらい前になると思う。
大学生から20代にかけて、たくさんの著書を読んだ。
最近は少し離れていたのだけど、今回の出版をきっかけに再び読み始めた。

ここに書かれていることは、ある意味で警世の書ということになるのだろうが、
私にとっては、まさにこれからやっていきたいことが書かれてある。

それは、大地という自然とつきあいながら、自分の生活を行い、都市へ発信し、交流を持つこと。
すべてを都市化してしまおうという流れに対する、ささやかではあるが根強い抵抗を行う。
あえて抵抗といったけど、それは権力的な活動ではなく、実体をそこに作ってゆく活動。
妥協を繰り返すように見えながら、芯は決して枉げない活動。
地域自治を実現するための行動。

「希望とは自分が変わること」副題となっているこの言葉に、震えた。

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3月5日 土曜日

急に時間ができたので、気になっていた作業を行うことに。
亡義祖父の古いトラクターを引っ張り出す。
これが、そのトラクター。

この日は、4か所耕した。
楽喜舎農園には、暫定的に4か所の区画があって、
それぞれAからDとつけてある。

これはA区画。
イチゴの隣で、ここ半年間なにも触っていない。
わらマルチをしてあったが、わらはアスパラガスの畝に移動させた。
アスパラも無肥料にしたいので、わらマルチで肥料代わりになれば、という考え。
耕起前。

耕起後。イチゴの葉を見る妻。

こちらもA区画。
ついさっきまで、大根を育てていた。
二畝ある。
耕起前。

耕起後。画像に見える人参は、夕食行き。

これがB区画。
ソラマメと、ねぎにはさまれている狭い畝。
耕起前。

耕起後。少し草の根が気にかかる。

こちらは、野菜などの残渣。

自然王国時代は、スタッフが作った残渣置き場があったのだが、今はまだそこまでできていない。
ハーブガーデンを作る予定区画の隣に野積みしてある。

これがC区画。

広さは測っていないのだけど、ここ10年以上なにも触っていない。
一部は、4年前に夏野菜を育てたが、ほとんど世話もしなかったので、ろくな収量がなかった。
長いこと触っていないので、篠竹の根があったり、セイタカアワダチソウの根があったりで、
この先が思いやられるのだが、家のすぐ下の畑という好立地なので、何とかものにしたい。

これらの畑で、私は私の考えることを実行したいと思っている。
何をするにしても、自分の足でしっかりと立って行動することが必要だと思っていて、
その始まりがこの畑なのだ。
周りの人もいるので、まったく一人ですき放題やるわけではないが、
観察と実行を通じてなにかを見いだせればと思う。
そういった現場作りを、自家菜園を通して行っていきたい。

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楽喜舎農園(仮)ことはじめ

楽喜舎農園(らっきしゃのうえん)と、仮に名づけて菜園を始めたいと思った。
将来的に自分の現場を作っていきたいという思いからである。

とはいっても、まだ確たる方針はないのだが。
以前に「知足農園」としてしばらくやってみたが、長続きしなかった。
だから、というわけでもないのだけど古いノートを見てみるとこの名前でやろうと思った時期も
あったようで、それを再び使ってみる次第。

3月3日(木)雛祭りの日。
数日前からの雨で、粘土質の畑はじっとりと湿っていた。
しかし、あまり休みがない中でこの日にぜひやってしまいたかったのがじゃがいも定植。

種とりをしたかったので、男爵を考えていたのだが、地元の種苗屋のおばあさんに、
「今はみんな北あかりだよ」といわれ10キロ購入。
北あかりというのは、男爵と何かをかけ合わせた品種で、ホクホク度が男爵より強い。
男爵より少し収量が下がると言われている。

今年はこれを、無農薬無肥料栽培でやってみようと思っている。
木村秋則さんに、明らかに影響されているのだが。
著書を読むと、自分でもなんだかやれそうな気がするのだ。
参考書は、主にこの2冊。

こちらは、自然栽培の実践者のレポートが多数載っている。

木村さんは、「畑を十分に乾かしてから作業しなさい」といっているのだが、
早速その教えを守ることはできなかった。
ただし、マルチを半年近くはりっぱなしにしてあるうねが3本あったので、
作業するのその日にはがして、ジャガイモを植えることにした。

最初の二つの畝は、大豆後。大豆を抜いてみて、根粒菌があまりついていなければ
作物が育つのに十分な肥料があるということだったので、ここに肥料区と無肥料区を作ってみることにした。
マルチをはがして、トラクターで耕す。
う〜ん、予想していた通り、マルチをはってあったとはいえ、土をかなり練ってしまった。
三列畝を作って、25センチ間隔でじゃがいもを植えたのが以下の写真。
一番左はしだけ、鶏糞をひとつかみいれてある。

全部を無肥料でやるのは怖いため、入れてみた。

後はすべて下の写真のように、何も入れていない。

で、残りの畝は、最初マルチをはったまま穴を掘ってじゃがいもを植えようと思ったのだけど、
だんだん疲れてきて、時間もなくなってきたのでマルチをはがし、
トラクターでうなわずにそのまま溝を掘ってじゃがいもを植えてみた。
トラクターを入れていないだけ、マルチに守られていた畑の部分に水分が少なく、
木村さんの言っている状態に近いかなと思う。
土よせをしているところ。

今回は、今までやろうと思ってしていなかった、
「畑に生草をすきこまない」というのを結構意識して行った。
生草が入ってしまうと、土中での分解過程でガスが発生し、
作物の成長に影響を与えるため。
木村さんはもちろんすきこまないし、これは農家の間では常識に近いのだけど、
面倒くさいのもあって、ずっと適当にやってきた。
自家菜園をぼつぼつ始めて6年目、そろそろ本気を出さなければ「光陰矢のごとし」。

午前中の作業をやった後の私。

facebookに登録する写真がほしかったので、恥ずかしさもあったが妻に撮影してもらう。
だんだん恥ずかしさもなくなるだろうか。

自分自身をメディアとしてどういう発信ができるのか、実践と試行錯誤を始める。

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藤本了敏さんのこと

藤本了敏さんが亡くなったと聞いたのは、先月の28日のことだった。
2月27日午後9時30分御逝去。享年88歳。

藤本了敏さんは、故藤本敏夫氏(鴨川自然王国創立者)の御母堂である。
藤本さんが鴨川に居を移し、農的生活を始められたころに、鴨川に移ってこられて、
それから鴨川での藤本さんを支え続けた。

私が初めてお会いしたのは、7年前の8月。
加藤登紀子さんを王国に訪ねた時だった。
鴨川行きのバスを一本乗り過ごし、夜遅く王国入りした私を温かく手料理で迎えてくれた。

その9月から、私は王国に住み始めた。
普段はおばあちゃんと話することもあまりなかったのだけど、
機会があれば自宅に伺ってお食事をいただいたりすることもあった。

元気だったころは、歩いて2時間以上はかかる近くのスーパーまで行ったり来たりしていたそうだ。
「え〜、おばあちゃんそれ大変やったでしょ?」
て聞いたとき、
「でも、楽しかったよ。季節によって風景が違ったしね」
と微笑んだお顔がとても印象に残っている。

スーパーの近くの薬局のおばさんは、
「藤本さんのおばあさんは、キセルでたばこを吸っていて、粋だったよ」
と言っていた。
私が遊びに行くと、キセルとインスタントコーヒーがいつもおいてあった事を思い出す。

私が今の妻に結婚を申し込みに行くときは、ネクタイがないことに気がついて、
おばあちゃんの家に、「おばあちゃん、藤本さんのネクタイ余ってませんか?」といっておうちに上がりこみ、
ベージュのネクタイをお借りしたのだった。
返しに行ったら、「あんたにあげるよ」といわれて、そのままいただいた。
そのネクタイは、今も使わせてもらっている。

それほど密接なつながりもなかったのに、亡くなってみるとどうしていろんなことを思い出すのだるう。
もう何もお声をかけることもできない。
鴨川に来て、初めて知り合った人が亡くなって、とてもさみしい。
御冥福をお祈りします。

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