全国一律という考え

地方自治体の様々な要望を聞いて回った。
その中で、多く出されたのは、
「全国一律で対応するべきである」
という言葉で終わる要望。
それは、社会保障であったり、
道路整備であったり、さまざまだ。

全国一律という考えは、平等という観点から考えると、
一概に悪とは言えない。
たとえば、A市では医療費が中学生まで無料だが、
B市では財源不足のため小学校3年生までが無料だ。
だからA市に人が引っ越してしまう。
B市はどんどん少なくなる。
といった構図。これではだめでしょ?というわけ。

極論になるけど、病気にならない体をつくるほうが先決では?
骨折や交通事故、がんなどの重病はやむを得ないけど。

政策と、人間の暮らしというのにはいくらか隔たりがあるようだ。
現場をわかった政治というのはあるのだろうか。
大体、その現場だってさまざまなのだから。

政治とは、結局妥協なのか。
まだこれは、考え途中。

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地域再生の罠2

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

引き続き。

地域活性化をなぜ行わなければならないのか?
という問いに対しては、
俗に答えると、人にたくさん来てもらって、お金を落としてもらって、
雇傭を生みましょう、という背景がある。

これ、間違えてないと思っている。
地域で働く場所がなければ、やはり外に出ざるを得ないから。
農村部の場合、思い切り稼がなくても
田畑や山があるので、なんとか暮らしてゆける現状はあるものの、
それだけでは足りないからだ。

何より私が大切にしたいのは、ある程度集落に近いところで仕事をすることで、
昼時には自宅に帰れたり、夜はみんなで集まったりという
ある種の共同体意識である。

これがないと、なんか物足りない、ものさみしい。
それをつくるために、本を読んだり、人に会ったり、イベントをしたり。
そんなことをしている。

まだ、先は見えないのだけど。
日々己を振り返ることができるだけでも良しとするしかないんだけどね。

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地域再生の罠

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

ここ何年か、これを中心に活動しているのだけど。
箱モノよりも、市民の使いやすさ、輝きを重視した政策が必要、と書いてある。
すごく重要な指摘だけど、どうすればこの思いをみんなに説明することができるだろうか。

ほとんどの人は、「地域活性化は経済発展のため」というのが至上命題だ。
むろん、これは必要なんだけど。
ここから出発すると、結局よその成功例を模倣しようとする方向に行くのだ。

読み途中なので、この辺で。

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主体をつくるということ

何かをやる上において、
「やりたい!」と思っても、
自分の現状では難しい時がある。
そのとき、「この人にお願いしたい」という人や、
「あの人だったらできるかも」とすぐに思える人は少ない。
隣の芝生は青く見えるもので、
先行事例を参照したりすると印象的な人物が、そこにはいたりする。

事業主体をつくることは、
従来の年功序列的、名士連合的な組織では難しい。
しかしここでは、何十年も名士的な組織で動いている。
「新しい力を」といっているわりに
「あいつはまだ若い」というような表現で、
結局はその若者もいつの間にか50歳を過ぎるのだ。

社会的事業にかかわる人には概して個性の強い人が多く、
それを嫌う人々も一定数存在する。
誰かがうまくまとめればいいな、と思うのだが、
そうはうまくいかない。

どんなに小さい組織でも人間関係が発生する。
何とかしてプロジェクト的な組織がネットワーキングしていく形をつくりたいのだが、
この地では実現は先になりそう。

今は結局、この場でもがくしかないのだろう。
でもこのもがきは、きっと明日につながっている。

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工夫次第

日々、「地元を回れ」、と言われているのだけど。
自分らしいやり方がないかな、と考えながらやっている。
今はまだ知り合い中心に回っている。
目論見としては、知り合いから始めてだんだんとネットワークを広げていこうと考えている。
結局のところ、どんな仕事でも工夫次第だと思うのだ。
なんだか来春解散など、あわただしい報道も始まっているのだが、
地元秘書としてはたんたんと地元を歩くだけだと思うのだ。
そこに何かを見出そうと思っている。

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対話の中で

「ふっきれたようだね」と言われた。
自分の中ではそんなに意識していないのだが、
1カ月ぶりにあった人からそう言われると、そうなのだろう。
私は結構、「自分のことは自分ではわからない」と思っているほうなので、
その言葉も意外ではなかった。

この間仕事に対していろいろと思うこともあり、
自分のボスに対して思うこともあり、なかなかすっきりとはいかなかった。

考えてみると、「自分で仕事のペースが作れない」ことに大きな疲労を感じていたように思う。
秘書という仕事の特性上、議員中心に仕事を考えるのは当然なのだけど、
そこに納得するまでに時間がかかっていたのが実情。

「収入がいいから就職したの?」という問いかけには、うなづくことはなかった。
そううそぶくことはあったけれども、心底には現職への関心と、
ボスへの信頼・尊敬というものがあったから就職したのだ。

“Nobody is perfect.”というのは、実際そうなのだと思う。
自分自身完璧じゃないのだけど、気がつけば私は相手に対して完ぺきを求めていると気づくときもあるのだ。
落ち着いて過ごせるならば、過ごしてゆこう。

考えてみれば、私にはまだ前向きに考えてやってゆこうとする気持ちが残っている。
まわりには、頼りにしてくれる人もいるし、頼れる人もいる。
それが最高に幸せなのだ。
じゃ、あとは自分が機嫌よくやってゆくだけ。

中村天風師は「まいた種のように花が咲く」とおっしゃった。
良き種をまきましょう。

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すっかりご無沙汰です。

この間いろいろありました。
5月20日以来、更新しておりませんでした。
このブログ、悩みすぎ…
と友人から指摘を多々受けておりまして。
昔書いてたものもどうしても愚痴こぼし系。
というわけで、なんとかこちらも復活させてゆきます。
宣言しても実行できないことが多いのですが。
たった一行、「今日も元気だ」くらいでいくか、
週2〜3回の更新を目指すか。

そもそも、何のために書くのか?と言うあたりをはっきりさせたほうがいいですね。
では、また・・・

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日々の学び

独立した妹に、「日々のすべてが学びやから、頑張れよ」と声をかける。
そう言ってもらいたいのは、本当は自分なのだ。
昨日も書いたけど、自分はひとりじゃない、と思えることは
心底でがんばれる大きな基礎になると思う。
まだまだ仕事は終わらないが、がんばろう。

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同志のいること

昨年から始まった廃校利用有志の会。
途中若干息切れ気味だった。
みんなそうだと思っていたが、実は私が息切れしていただけかもしれないと思った。
週末の田植えイベントに関していろいろと意見を出していたら、
どんどんわくわくしてきた。
この感覚がすごく大事。
一人で考えているとどんどんしょぼいようなイメージになってしまうのだけど、
有志の会のメンバーと考えているとだんだん楽しくなってくる。
これって、すごくいい感覚なのでは?
現場にいない人は、常に批判から始まる。
現場にいる人は、どうすれば楽しくなるか、はりきってやれるか考えようとする。
この感覚が、私の必要としているものなのだ。
これを仕事に生かそうとするのはやらしいのかもしれないが、
活かせたら仕事楽しくなるやろうなぁ。
でも、この今の取り組みをやりきればまた先が見えると思う。
仕事上のプレッシャーが、今の自分に必要なのだ。
自分と、家族と、仕事と社会。
この4つがうまくつながっていればいうことはないじゃないか。
同志のいることの幸せを感じた。

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